※二、
「生きている……?」
「椿の木には、精霊が宿るんだ。名を、伊予姫という」
「伊予姫……」
「触ってみろ」
すらりと伸びた伊予姫の木に、そっと触れる。
直後、銀子の頭のなかに、女性の声が響いてきた。
「あなた、銀子というのね?」
姿は見えない。しかし、声が頭のなかに直接聞こえてくる。
占部を見上げるも、彼は何も言わずにただじっと伊予姫を見つめていた。
「うん、銀子です」
「私は伊予姫。椿の木に住んでいる、精霊。そして見定めるもの」
「見定める、もの?」
頷くそぶりをした伊予姫は「そうよ」とちいさな声で笑った。
「でも、あなたなら大丈夫そうね。きっと、強い子になるわ」
「どういうこと?」
「この鵺の森にふさわしいか見定めるのが私の仕事だけど、見ただけで分かったわ。あなたは、素質がある。大丈夫。きっとうまくやっていけるわ」
「う、うん、ありがとう……」
伊予姫がふたたびちいさく笑うと、もうそれ以上、彼女の声を聞くことはなかった。
椿の木から手を離し、ひとつ息を吐き出す。頭のなかの声に返事をするということ自体、はじめてだったからか少し、疲れてしまった。
「伊予姫はなんて言ってた?」
「きっとうまくやっていけるって……」
「まあ、合格ってところか」
占部は頭をぼりぼり掻いて、さして興味なさそうに銀子から目をそらす。
彼女にしてみれば何が何なのか分からないことだが、「合格」という言葉に安堵した。
「……これを取れ」
「え? うわっ!」
銀子に押しつけられたのは古い木でできているであろう柄に、金色で塗られた鞘。その鞘には、細かく文様が刻まれていて、椿の文様、牡丹の文様がぐるりと鞘を囲んでいる。
「これで、妖怪をやっつけるの?」
「馬鹿、そんなことさせられるかよ。那由多に殺されるわ」
「じゃあ、どうして……」
「これは守り刀だ。刃も偽物。傷つけることはできねぇよ」
たしかに、鞘から出しても刃は偽物のようだった。指をすべらせても、切れることもない。ただ、はがね色をした刃は、まるで本物のようだ。
「お守り……」
「そうだ。袂か帯に差しておけ」
「うん、ありがとう」
次に取り出したのは、真っ赤な札だった。札は深い紅色で、何も書いてはおらず、裏も表もないように見える。差し出されて、反射的に受け取ると、その札は和紙よりもざらざらとしていて、ふつうの紙でもないと分かった。
「これはなに?」
「札だ。これがおまえの相棒になる。切らさないようにしろ。人間が鵺の森に来たってことがずいぶん、広まってるようだからな。その分、襲う輩も増えてくる。まあ、最初は私が守ってやるが、慣れたらおまえがおまえを守れ」
「う、うん。がんばるよ」
「……これだけは言っておく。妖怪が妖怪を襲うのも多いが、妖怪が人間を襲う場合のほうが、割合的に多い。伊予姫は鵺の森で生き残れるかどうかを見定めたんだ。結果、おまえは力があるっつーことで、合格したわけだ」
銀子自身、ほんとうに自分に力があるのかどうか、いまだに分からない。
札を見下ろしても、ただごわごわとしているだけで、文字もなにも書いてはいなくて、どうすればいいのかも分からない。
「ねえ、占部。これをどうすればいいの?」
「渡した札すべてに、おまえの手で印を書くんだ。思いを込めて、一枚ずつな」
「……わかった」
占部はそれだけ言い、ついてくるように促す。
手のなかには、おそらく50枚はあるであろう札は、決して少なくはないだろう。それでも、占部が「相棒」と称したこの赤い札は、おそらく銀子にとって身を守るための札になるはずだ。
胸の前で札を抱いて、占部の後ろをついてゆく。黙ったまま廊下をずっと歩いていくと、銀子の部屋の襖を遠慮なく開けた。
長持を勝手に開けて、そのなかから文机を取り出し、畳の上にどすん、と置く。
さらに長持のなかから書道道具を取り出し、文机の上に置いた。
かなり古そうな硯に、黒い壷に入った墨が文机の上に置いてあるが、筆がない。
「占部、筆はどこ?」
「筆は使わん。指で書くんだ」
「指で……」
「筆で書くと、どうしても機械的になるからな。印を教えるから、真似してみろ」
「う、うん」
占部は懐から一枚の札を取り出し、文机の上に置いてある壷の口に指を当て、すっと札に指を滑らした。
「っ!?」
直後、札から火が吹き出て、おもわず目をつむった。再び目を開けたときにも、まだ火はまるで人魂のようにゆらめいる。燃え広がることも、消えることもなくただ浮かんでいるが、何故火が吹き出るようなことになったのだろう。まるで手品だ。
「火が……! すごい、手品みたい!」
「手品ぁ? そんなちゃっちい言い方あるかよ。術と言って欲しいね」
「術……」
「これが、思いを込めて書くっつーことだ」
「私にも、できるの」
「まーだそんなこと言ってんのか! いいか。伊予姫が見定めたんだ。力がなけりゃ、那由多も拾ってねぇよ」
銀子に、力がなかったら――。
もし、力がなくて捨てられていたら、間違いなく銀子は死んでいただろう。力があるから那由多は拾ったと言うことなのだろう。
こぶしを握りしめて、目をふせる。
「いいから、一回書いてみろ。いいか。心を込めて書くんだぞ。心が宿らない札なんか、ただの紙の切れっ端だ」
「うん、……わかった」
文机の前に座り、深呼吸する。
(私の、気持ち。私の思いをこめて。)
硯に墨を流して指先に墨をつけ、赤い札に教えてもらった印をえがく。
(辛くて悲しいけど、私に生きていて欲しいって思っている人がいるなら、私はまだ生きていたい。)
占部から教えてもらった印とは単純な棒一本だったが、占部が描いた印を見た直後、戦慄を覚えた。占部の思いがこもった札は、だからこそ――主の思いに応えたのだろう。
「――待て!」
書き終える直後、占部の鋭い声が銀子を我に返させた。