五、
銀子は、自覚をしていた。
なぜ、自分のはなしになるといつもぼうっとしてしまうのだろうか、と。
前もそうだ。
故意に張り巡らせた霧のように、ぽつんと置き去りにされる意識。
晩冬の、ふかいふかいもやのように。
それがなぜかなど、知らなかったし、知ろうともしなかった。
けれど、自覚した。
そうだ。これは、故意にだれかが銀子の意識をつかんでいたのだ。
誰かはわからない。
それでも、あの声がわすれられない。
桜のようなあわい声。
長い黒髪。さらさらとゆれる髪は、とてもきれいだった。
あれはだれなのだろう?
銀子といったい、どんな関係なのだろう?
「銀子」
気遣うような声が、はっと銀子をうつつに引き寄せた。
銀子は彼女の部屋で、正座をしていた。透明な水滴のような、水色の浴衣をきて、彼女はぐっとくちびるを噛んだ。
ユキサの一族――暁暗がいつやってくるか分からない。
占部は、懐から札をだした。
はじめて見る札だった。
ここにきて初めて見た赤い札ではない。白い札に、幾何学的な模様が細かく描かれていた。
「それはなに?」
「封印の札だ。この部屋には誰も入ってはこれない。まあ、ただの気休め程度だがな。なにせ奴らは魂を引っ張る」
「魂をひっぱる……」
「ああ。いくら暁暗がこの部屋に入ってこれないと言っても、うちがわから入ってこられればどうしようもできない」
「……ねえ、占部。私、やっぱり波達羅盈の所にいこうとおもう……」
「なぜだ? あいつはおまえを殺そうとする。道具として」
彼女は、――鶴の妖怪は、月虹姫のように冷たい瞳をしていた。
だからこそ、銀子のことも月虹姫を殺すための道具としてしか見ていないだろう。
それでも――。
知りたかった。
あの女性がだれなのか、銀子の真実の過去とはどういうものなのか。
襖から、こんこんと音がする。暁暗だ。
「銀子」
緊張感のある声。
占部は今すぐにでも立ち上がることが出来るように、立て膝になった。
「占部どの。術をほどこしたんだね。俺の力ではどうしようもできないが、銀子の魂を波達羅盈さまのいる場所につれてゆくことは簡単だよ」
彼は、かなしそうだった。
あのときの葛籠のように、まるで望まない、とでもいうかのように。
「占部。だいじょうぶ。私、行ってくる。帰ってくるよ。あなたのところに。ちゃんと」
彼に言い聞かせるように、ひとつひとつ、大切にことばを紡いだ。
「波達羅盈さまも、すぐに銀子をどうこうするつもりはない。大丈夫。占部どののところに俺が責任をもって返そう」
「化け狸に諭されるとはな……」
すっと立ち上がり、占部は暁暗のいる廊下にむかった。
そして、襖をひらいた。
「もし――約束を違ったら、私はおまえの喉笛を食いちぎってやるからな」
「分かった」
ひりひりとするような占部の視線に呑まれた暁暗は、ごくりとつばを飲み込んだ。
それほど、本気だったのだ。
それを静かに見送った銀子は、そっと立ち上がり、暁暗のとなりに立った。
「それじゃあ、行ってくる。私、占部にちゃんと話すよ。秘密はもうたくさん。だから、もっと教えて。占部のこと」
そうっとほほえんだ銀子は、今までよりもずっと大人びて見えた。占部は手のひらを握りしめて、目をふせた。
そして、親において行かれた子どものように、ちいさく頷く。
やがて、銀子と暁暗の姿は廊下の闇に消えていった。
色とりどりの組紐が風になびくようにゆれている。
暁暗に連れられて、白いお社にむかった。
その最中、まっすぐお社に目を向けながら、暁暗はつぶやいた。
「俺も、嬢ちゃんには生きていて欲しい。それが当然の結果になるはずだ……」
「私は死なないよ。たとえ、どんな力を背負わされても、私はまけない。私を守ってくれたひとのためにも。……つぐみのような、かなしい最期を私は選ばない……」
銀子も暁暗も、それ以上なにも話すことはなかった。
波達羅盈がいる場所は、相変わらず真っ白なだけの大広間だった。
「波達羅盈さま。連れてきましたよ」
「うむ、ご苦労」
彼女はそっと御簾から出て、床のうえにすわった。
(やっぱり――那由多に似ている……。)
エメラルド・グリーンの瞳がきゅうっと細められて、銀子を見つめた。その瞬間、ぞっと背筋が凍るような感覚をおぼえた。
逃げ出したいけれど、それでもそれを許さないような、圧倒的な力。
じわ、と手の内がわに汗がにじむ。
(那由多は、こんな目をしない。こんな、ひとの心をいたぶるようなことは、しない……。)
「那由多はやさしいか。だが、それはそなたの前でだけだよ。銀子。あの男は――」
「那由多を貶めないで。私は、信じてる。彼がどれだけ苦しんでいるか、私にはまだはっきり分からない。でも、いつも哀しそうだった。辛そうだった。苦しむことは後悔しているということだよ。だから、私は騙されない」
「ほう、ほう。これはまた、強気なお嬢ちゃんだね。銀子」
愉快そうにわらう波達羅盈は、それでも目は決して笑ってはいなかった。
値踏みするように、いたぶるように、銀子を見つめている。
「私の過去をおしえて。その覚悟はできている。私が自覚をすれば、どうなるかは分からない。でも、私だって鵺の森を守りたい。そのためなら、私は私のどんな犠牲もはらうつもりだよ」
「見上げたものだ。その幼さで、そんな覚悟があるとはねぇ……」
くすっと彼女はわらった。
そして――やはりいたぶるような瞳で、赤いくちびるをこう開いて言った。
「そなたは、ヒトの血と妖怪の血が混ざっておる、どっちつかずの半端な存在じゃ」




