三、
波達羅盈は白いお社のなか、ひとり彷徨うように歩いていた。
けれど、その足取りははっきりとしていて、どこへ行こうとしているのか、分かっているふうだった。
「ようやく、このときがきた」
ふっとちいさな葉が風にふくように、彼女は呟いた。
厳重な鍵と術をほどこした場所。
そこに波達羅盈が手をふれると、そこはいともたやすく封印がとかれた。
その場所は、ひどく広かった。
この森の王の部屋よりもはるかに大きい。
ゆっくりと波達羅盈は歩いた。
歩くたびに、まわりにおいてあるハゼから作った燭台に火がともる。
そして、やがてたどりついた場所は暗かった。燭台も行燈もなかった。
「ようやく、銀子も自覚したようだ」
洋風の赤いカーテンのむこうに語りかける。
彼女はなにもいわない。あたりまえだ。死んでいるのだから。
「おまえとしても、嬉しかろう。孤月」
死んでいるはずのそれが、のそ、と動いた。
波達羅盈は目を見張って、それでも――くちびるをゆがめた。
「憂うのか? 孤月。よかったではないか。銀子も自覚をすれば、そなたを認識出来るのだから。いや――。親に捨てられたという記憶を植え付けたそなたは、やはり憂うにあたいするのだろうか? まあ、わたしはどうでもいい。月虹姫を殺すため、われらは本格的に動く。孤月。そなたはもう死んでおる。なにかをしようとするでないぞ」
にいっと笑い、波達羅盈はそこから立ち去った。
きつく、焼くような痛みを背に感じる。
やはり、死んでからも奴は力がある。那由多、占部以上に――。
「波達羅盈さま」
そっと、影のように寄り添う男がぼそりと呟いた。
この男も、ユキサの一族だった。
「どうした?」
「波達羅盈さま。鴉が動き出しました。おそらく、葛籠かと」
「葛籠か。奴など、放っておいてもよい。占部が殺すだろう。今度こそな」
「は」
男は白い社から風のように消えた。
のこされた波達羅盈は、さまざまな色をした組紐が風もないのに揺れ動くさまを見て、目をほそめた。
うつくしい男、そしてうつくしい女だった。
それも、過去のはなし。
しかし、その力はいまだ残されている。残滓といっては大きすぎる、力が。
銀子はねむった。
すでに日は傾いている。
このまま、今日は彼女は目をさまさないかもしれない。
占部はじっと銀子をみおろした。
すこしだけまだ肌は青白い。
すっと呼吸をする。すると、翳ったにおいが占部の鼻をついた。
あれは――葛籠だ。
音もなく立ち上がる。
竹林のなかにいるようだ。だがそれも、動かない。
まるで、なにかを待っているように。
「しかたねぇな」
覚悟というものがあれば、葛籠はその覚悟がある。
死と生。
そのふたつを選び取る覚悟が。
銀子をのこし、占部はそっとその場所から立ち去った。
竹林のなかには、ぼうっと立っているだけの葛籠がいる。
幽霊のように、ただ立ち尽くしていた。占部がくると、ようやくその暗い目が彼へと動く。
「きたか。占部」
「仕方ねぇからきてやったよ。覚悟ができたんだろ。私が相手をしてやる」
「あの娘はどうした」
「お守りのテメェが問うか。あの女に襲われて寝込んでいる」
「そうか……」
葛籠は疲れたような表情で、ため息をついた。
占部の眉がかすかにうごく。「死相」というものが出ていたからだ。
疲れ切り、自ら殺されるようにこちらに来たのだろう。
「死ぬ前に、もう一度会ってみたかったが……」
「死ぬ気か」
「どうあがいても、お前には勝てぬ。これまではあの娘がいたからどうにかなっていたがな……」
ふっと、顔がかげる。今にも倒れそうなほどまで、顔色は青白い。
おそらく、占部が本気を出さなくとも殺せるだろう。
死にたがっていることを、占部は痛むほどにわかった。
だが、しにたがっているものを殺すこと程、占部にとって嫌悪感をいだくことはあるまい。
「――殺されるためにきたってわけか……。迷惑だ。死ぬのなら、勝手に死ねばいい」
「お前は……あの娘が大事なのだな。だからこそ、その手を血に塗らせたくないのだろう」
「馬鹿を言うな。もう私の手はとっくに汚れている。今更ひとりやふたり、どうということではない」
そのとおりだ、と思う。
死にゆくものに、こころのなかを覗かれることになるとは、と失笑する。
大切だ。
あの弱き存在が。
鵺の森の何をさしおいても、銀子が大事だ。
その娘に、これ以上汚いものを見せたくはなかった。
だが、もう遅い――。
占部は、葛籠を殺すだろう。
言うとすれば、「情」か――。
この男を殺すことで、この男が救われるのならば。
銀子がそうしたように。
銀子の足を損ねたように。痛みを受けとるように。
「ひとつ聞こうか。なぜ、そんなに死にたがる? テメェは、ねがいがあったはずだ」
「……もう、無理だと分かったからだ。死んだ姉さまを、姫は生き返らせることを約束してはくださらなかった。今、姫様は自暴自棄だ。鵺の森をもなきものにしようとしている」
「そうだな」
「おそらく、鴉はもうすぐ崩壊を迎えるだ……」
そのことばは、最後まで続かなかった。
葛籠の体が傾き、血を吐き、地に落ちた。
占部は反射的に空を見上げ、ぎりり、と歯を軋ませる。
そこには何もない。だが、残滓があった。
以前、那由多の洞窟にいた、顔の見せない鴉。そのにおいがした。
葛籠は倒れ、すこしだけ咳をしている。まだ生きているのだろう。
「葛籠!」
銀子の声が聞こえた。
葛籠の死の気で起きてしまったのだろう。
「銀子、来るな」
「葛籠! どうして、こんな……」
仰向けに倒れたままの葛籠は不思議そうに銀子を見上げた。
焦点が定まっていない。もう、目は見えていないのだろう。
「その声……銀子、か」
「しっかりして! 私が……」
「やめろ。銀子。もう、いい。ねがいは果たされなかった……。だが、なぜだろうな。とても、清々しい……」
強い口調で葛籠が制す。
彼は、笑っていた。そして、分かっていたのかもしれない。
彼自身の心がもう、すでに死んでいたと言うことに。
「姉さま……」
葛籠の手を銀子が握りしめる。そして、彼はふっとほほえんだ。
今まで見たことのない、やさしいほほえみだった。
「姉さま、……俺は、おおくの罪を……犯しました……。だから、そちらには、いけません……。けれど、俺は……」
銀子の手を握りしめ、彼はもう一度、吐血した。
彼女のほおを汚すが、銀子は気にはしなかった。
「葛籠……」
「だが、占部……貴様の手で終わらせて欲しかったものだ……」
「すまねぇな」
ふっと、占部は皮肉そうに笑った。
だがもう、葛籠はなにかを話すことはなかった。
ただ、呆然とする銀子の呼吸の音が聞こえただけだった。




