二、
暁暗は、波達羅盈を見据えていた。
「なぜ、銀子にそんなことを」
「過去のことかね。何も知らぬまま死んでも、死んでも死に切れまい」
「……銀子を死なせる気ですかい」
波達羅盈は、くちびるに扇をあてて、にっとわらった。
その表情は月虹姫と似た、凍えるような笑みだった。
「鵺のための犠牲ならば、仕方があるまい。われらはきれい事で鵺の森を救ってきたわけではあるまいて。おまえの手は、何人の人間や妖怪の血を浴びてきたのであろうなあ」
くっくっと笑った彼女のあとを去り、林のなかに降り立った。
暁暗の表情は今まででいちばんかたかった。
手をにぎりしめ、那由多の屋敷を見上げる。
そのまま、暁暗は麻の浴衣のすそをひるがえして、そこから立ち去った。
「銀子、どうした」
腰のあたりにしがみついたままの銀子は、顔をふせた。
「波達羅盈に、何か言われたか」
「……そんな子どもじゃないもの」
「私にくらべればおまえなど、赤子同然だ」
赤い、燃えるような髪の毛が畳の上でゆれる。
わらったのだ。
そっと、慣れぬ手で銀子の頭をなでた。
幼さの残るやわらかい髪の毛。
こんなにも、少女の髪の毛とはやわらかいものだったのだろうか――。
「怖いことなんてない」
銀子は、おのれに言い聞かすように呟いた。
たとえ、どんなことがあってもこの少女の味方でいようと思う。
ふいにそう思った。
銀子目を閉じ、ぎゅっとくちびるを結んだ。
占部のあたたかい体温を感じていると、どこかからか、声が聞こえてくるような気がした。
銀子を呼ぶような声。
春の木漏れ日のようなあたたかい声色。
黒い髪の毛を長く垂らした、うつくしいシルエット。
「だれ?」
手をのばしたら、ふっと霞のように逃げていってしまうような、かなしい感覚。
「だれなの? あなたは、だれ?」
(銀子。)
かすかな声。
うっすらとした氷のような、透明でひび割れてしまいそうな声。
だれ?と問う。
(銀子。思い出してはだめ。)
(これは秘密なの。那由多も占部もしらない、私とあなただけの秘密のはず――だった。)
さらりとした髪の毛がゆれる。
まるで、桜の花びらが舞い散るように、うごく。
「銀子!」
はっと顔をあげる。
占部の鋭い声がその幻影を振り払った。
「どうしたんだ」
「わ、私……」
「なんだ」
手がふるえる。
これは、ひみつだ。さっきも、自分でなんとかすると決めていたのに。
でも、あの声が銀子の耳についてはなれない。
「私、怖いものを見た気がする……」
「おまえ……」
浅葱色の瞳が、じっと占部を見上げた。赤い瞳がそれを受け止める。
「夢見の力か。おまえ、ここにきてずいぶんたつな。鵺の森に受け入れられた時期をいれると、もうじき一年だ」
「うん」
「その力も、深まってきている」
「……。私、死ぬの?」
ふっとでたことば。
そのことばに、びくりと占部の肩がふるえた。
力が深まるということは、強くなるということ。強くなるということは銀子の体の負担にもなるということだ。
奇跡という名目の力を使えば、次になにをうしなうのだろう――。
そう思うと、怖くなった。
占部は銀子の腕をとり、ぐっと抱き寄せた。
呼吸が一瞬止まった。
占部の思いが銀子のなかに流れ込んでくる。
これは、なんだろう。
かなしくて、つらくて、あたたかい。
「大丈夫だ。なにがあっても、私はおまえを守ってみせる。死なせはしない。けっして」
「……やさしいひとだね、占部。でも、私は――どうしてだろう。あなたが那由多からいわれて守ってくれていることは分かっている。そのことがすこし、痛い……」
義務だ。
そうだ、これは義務なのだ、と何度問いただしただろう。
義務でなければならない。
そうでなかったら、何だというのだろう?
占部は苦しい息を飲み込んで、銀子のちょうちょう結びに結ばれた帯ごと、ぐっと力をこめた。
そっと銀子は頭を肩にのせて、呼吸をした。
首の痛みはもう引いていて、占部に体をあずけながら、無意識に首にふれた。
「私は強いからな」
占部は真剣な表情で、銀子の髪の毛にほおをあてる。
なにも心配はいらないと、そう銀子に信じさせるために。
実際、占部は強い。だが銀子と出会って、どこかが崩れた。
すこしずつ、崩れていった。
それを恐れたけれど、銀子のそばにいることを止められなかった。
だが、あのとき。不倶戴天がきたあと、呪いの力を放ったあと――。しばらくの間、銀子との距離をおこうとした。
でも、このざまだ。
銀子。
占部のくちびるが、そうかたどる。
ユキサの一族は、鵺の森を生かせるためには、手段をえらばない。
おそらく――だが、銀子の味方だけれど、銀子を道具としてしか考えていないだろう。
そういう一族だ。
なぜなら憎しみで満ちた、闇の色をしているからだ。
鴉に殺された妖怪たちの、憎しみを受け継ぐように。だからこそ、占部はそれを否定しない。
憎しみはなくならない。
苦しみも、つらさも、なにもかもがなくならない。
だからこそ、そういう淀みをもつ一族は必要なのだ。
どこの世界にも。
そういう意味では、哀れな一族なのかもしれない――。
だが、銀子を利用し殺すこともいとわないというのならば、占部は迷うことなく牙を向けるだろう。
あわれな龍は、あわれな少女に惹かれていた。




