九、
それから、おそらく――二週間はたっただろうか。
ぞっとするような、季節はずれの冷たい風が吹いた。
まるで、雪が降るような冷えた空気。
占部は布団から飛び起きて、中庭がある方向を睨む。
(こんなに早くくるとは。)
このにおい。
この、汚れきったにおいは―ー月虹姫だ。
うまく隠しているが、その残滓は決して隠せない。
銀子はきづいているだろうか――。いや、愚問だ。きづいている。
そして、警戒しているはずだ。
数ヶ月前、背に傷をつけた張本人である月虹姫が、ここにいるのだから。
「だいきらい。おまえなんて」
月虹姫は、ほほえみながらささやいた。
銀子の首をまだ幼い手で締め上げながら。
「……っ」
千早と緋袴を身につけた月虹姫は、ただただ笑んでいた。
銀子の苦しげな表情をたのしむように。
「おまえなんて、死んじゃえばいいのに。どうしてあのひとは、おまえなんかのことを……」
銀子は必死にその細い手首を掴むが、まるで成人男性のような力の前では、びくともしない。
彼女は、月虹姫がこの屋敷に入り込んだことを知っていた。
だが、占部に知らせる時間もなく、彼女はまっすぐこの窓のない部屋に来たのだ。
なぜ、彼女が銀子の部屋を知っていたのかは分からない。
姫にとってはどうでもいいことなのだろう。ことばは、紡がなかった。
あのひととは、誰のことだろう――。
銀子は薄くなっていく意識のなかで、そっと思う。
赤い瞳が狂気にゆがんだ。
そうだ。
彼女は、この姫は――最初から、正気なのだ。
狂っているんじゃない。
そうでなければ、こんな目はできない。
「銀子!」
黒くうつくしい髪の毛がふわりとゆれる。
襖を開け放った占部を見上げ、くちびるの端をゆがめた。
「あれ……? もうばれちゃった?」
くすっと無邪気に笑った月虹姫は、占部を見上げても銀子の首を絞める手をゆるめなかった。
彼女の首を絞める力は、まるでゆっくりと効いてゆく薬のようだった。
一気に意識を失わせず、苦しいまま、ゆっくりといたぶる。
占部の声が聞こえる。
けれど、なにを言っているのかは分からない。
「……っ、ぅう……っ」
意識が遠くなってゆく。けれど、このまま意識を手放してしまえば、おそらく帰ってこれなくなる。
せめて失わぬように、ぐっとくちびるを噛みしめた。
血液が、すっと顎をつたう。
占部がなにかを叫んでいる。
目の前の月虹姫は、およそ少女がするものではない、壮絶な表情をしていた。
笑っているのだ。
けれど、決して狂っているわけではない。
「占部。どうしてこんな娘の肩を持つの? どうして、人間なんかを守るの?」
その笑みをふっと消し、彼女はほんとうに分からないような表情をして、首をかたむけた。
「おまえには関係ない。関係があるはずもない」
いきなり首から手をはなされ、銀子は激しくせきこんだ。喉がひりひりと痛み、背中をまるめて目をぎゅっと閉じる。
その直後、「なにかが」銀子の腕をひいた。
うしろを振り返っても、それはどこにもいなかった。いや――小さかっただけなのだ。
下をみおろすと、たぬきがじっとこちらを見つめていた。黒くてすこし茶色い瞳。
「暁暗!」
暁暗だった。
彼は、くるりと回転するとヒトの姿になった。
緋色の羽織はもう肩にかけておらず、ただ焦げ茶色の麻の浴衣を着ていた。
「あぶなかった」
暁暗は膝を床において、銀子をじっとみつめた。
「え……」
今、きづく。
ここは、銀子の部屋ではなかったのだ。
ただ白く、時折緋色や、さまざまな色の組紐のような太いひもがゆらゆらとゆれている。
ここは、どこだろう。
銀子は立ち尽くしたまま、ぼうっと広い空間を見つめた。
「嬢ちゃんの体は、置いてきてしまったよ」
申し訳なさそうに、暁暗はつぶやく。
「ど、どういうこと?」
「俺のあるじがね、きみに会いたいと言っているんだ。というのは建て前で、危なかっただろう? すまなかったね、もうすこし早くに助けられればよかったんだけど」
答えになっていないけれど、問う気はしなかった。
説明のしようがないのだろうから。
暁暗は立ち上がって、ふっと遠くを見つめた。銀子もならうと、そこには立派で――とてもうつくしい社殿が建っていた。
今まではなかったというのに、いきなり現れたようなその社殿を、呆然と見上げた。
「行こう。銀子。なにも取って食おうとするあるじじゃないから大丈夫さ」
暁暗は手をさしだし、銀子はそっとその手をとった。
その社殿はこの白い空間に融けてしまうような白さだった。
まるで、白樺の木でできたお社のようだ。
お社の中は、うつくしい色の御簾が垂れ下がっていた。
その御簾の前には、座布団がふたつ、敷かれている。
暁暗はどかっと座ると、銀子にも座るように目でうながした。
「危なかったわね。銀子。占部は気づいていたようだけれど、助けるのがおそくなってしまった」
「あ、あの……。あなたは?」
「わたしは波達羅盈」
波達羅盈、と言ったまだ顔の分からない女の人は、御簾をきれいな扇でそっと上げた。
御簾のなかにいるのに、彼女は顔をもったいぶらずに出した。
「なゆ、た?」
那由多と、うり二つだった。
たしかに那由多よりも女性らしさがあるけれども、緑色の目、とがった耳、長く真っ白な――雪のような髪。
那由多の髪の毛はゆっくりとゆらいでいたが、彼女はすっと通るような、真っ直ぐな髪の毛をしていた。
彼女も――白鷺の妖怪なのだろうか?
「那由多とわたしは、似ているかい?」
「にています。とても」
「そうね。わたしと那由多はよく似ている。けれどわたしは白鷺の妖怪ではなく、鶴の妖怪だ。この眉のあたりを見てごらん」
さらっとした髪の毛が額をかくしていたけれど、波達羅盈は手でそっと額をみせた。
そこには、赤いしるしがあった。
たしかに、鶴のようだ。
豪華な打ち掛けも、赤地に鶴の刺繍を施されている。
「そなたを呼んだのは、助けるためでもなるが、もうひとつ、理由がある」
銀子はそっと、自らの首を無意識になでた。
すこし、熱を持っていた。




