一、
「私が?」
「ああ、そうだ。きみに任せるよ」
「冗談じゃない! なんで私が!」
畳の上にどっかりと座り、那由多に詰めよるも、彼はそしらぬふりをして、文机に視線を落とした。
「まさかおまえ、面倒くさいから私に回したんじゃないんだろうな!?」
「それこそまさか、だよ。わたしは、すこし探りたいことがあるからね。そっちで忙しいんだ。きみはいつも暇だ暇だって言ってたじゃないか」
「う……っ」
指摘されて、おもわず口ごもる。たしかに占部はいつも暇だ暇だと言っているからか、なにも言えまい。
しかし、那由多の「探りたいこと」とは何なのだろうか。
「なんだよ。探りたいことって」
「鴉だよ。この頃、どうにも騒がしい。きみもそう言っていただろ」
「そうだったっけ? まあいい。面倒くさいが、仕方がない。銀子の世話をしてやろう」
「ああ。よろしく頼むよ」
那由多はそれ以上、何も言うことはなかった。これ以上ここにいても仕方がない。占部は立ち上がり、自室へと戻っていった。
風もない夜だった。
朝日が入ってこない。なぜならここは窓がないからだ。
それでも、自然と起きられるのは毎日の習慣だったからだろうか。時計はなく、実際は何時なのかは分からない。
「おはようございます。銀子どの」
いつの間にか、藤が襖の前に座っていた。
おはよう、と返し、ひとつあくびをする。決して眠れなかったのではないが、いまだぼんやりとしてしまう。
「さあ、お着替えを。那由多どのから預かってございます」
「那由多から?」
畳の上に広げられたのは、ぼかしをかけたあかね色の袴と、黒地の牡丹が刺繍された二尺袖。
これを着ろと言うことなのだろう。そっとその生地にふれると、昨晩の那由多が着ていた狩衣とおなじ手触りをしていた。
「……袴なんて、履いたことないよ」
「わたくしがお手伝いします」
肌に直接触れる肌襦袢も、絹よりも肌触りがいい。いったい、何でできているのだろう。
藤に聞いてみても、笑っただけで何も答えてはくれなかった。
「さ、できました。裄もちょうどいいですね。那由多どのがお呼びです。隣の部屋へお越しください」
「あ、ありがとう……」
彼女はゆっくりと頭をさげると、まるで手品のように消えてしまった。驚いたが、もうこんなことでは驚いてはいられない。
「那由多……」
隣の部屋の襖を開け、銀子は再び驚く。
広い部屋のまんなか――ちゃぶ台の前に座っている那由多と占部がいたのだ。
あまりにも似合わなくて、呆然としてしまう。
「ああ、銀子。こっちだ」
「う、うん……」
那由多に誘われるまま、ちゃぶ台の前にすわる。
目の前に広げられているのは、白米にきれいな色の卵焼き、味噌汁に、煮物。和食でととのった朝食は、おいしそうだった。
昨晩何も口にしていなかったからか、今更お腹がすいてくる。
「いただきます」
銀子が手をあわせると、那由多は「どうぞ」と笑った。たぶん、那由多が作ってくれたのだろう。卵焼きに口をつけて、ゆっくりと租借する。
とても、とてもおいしかった。
橘の家にいたころに食べていた卵焼きとは、味付けがまったくちがうのに、とても安心する味がする。
「……」
今さら、ひどい悲しみが銀子を襲う。何故、捨てられなければならなかったのだろう。何故、捨てられたのだろう。
理由は分かっているのに、とてもつらい。
「銀子」
黙ったままの銀子に声をかけたのは、那由多だった。
彼女の肩に手をあてて、うつむく顔をのぞきこむ。緑色のきれいな目が、銀子を気遣うように細められた。
「すぐは無理かもしれないが、わたしたちのことを家族だと思ってほしい。わたしたちも、きみを家族だと思っている」
「うん……」
那由多の気遣いがうれしいが、心の傷はまだ癒えそうにない。
ぐずぐずしていても、食事が冷めてしまうだけだ。再び箸を持って、口に運ぶ。
「おい、銀子」
「なに?」
「これから力を使うための訓練をする。私は厳しいからな。覚悟しておけよ」
「う、うん」
占部は白米をかきこんで、租借しながら銀子を見下ろした。真っ赤な目を見返して、頷いてみせる。
「じゃ、朝飯食ったら、とりあえず中庭に来い」
「わかった」
それだけ言い、彼は食器をちゃぶ台の上にのせたまま、部屋を出て行ってしまった。
食器くらい、片付ければいいのにと思うが、那由多は「いつものことだよ」と笑っている。
「たしかに占部は厳しいかもしれないが、この鵺の森でも一位二位くらいに力があるからね。腕はたしかだ」
「うん。でもほんとうに、私に力があるの?」
「あるさ。なければ鵺の森には入れない。ふつうの人間はここにいないよ」
「そうなんだ……」
「さあ、食器はわたしが片付けておくから、歯を磨いて占部の所にお行き。きっともう待っている」
「うん。わかった。……那由多、ありがとう。私を拾ってくれて」
彼はすこし驚いたような表情をしたあと、やさしい笑みをこぼしてくれた。
「ごちそうさまでした」
手を合わせてから部屋を出て、中庭を探す。
この屋敷はとても広いのか、廊下が長い。部屋もたくさんあって、どこをどう行けば中庭につくのか分からない。
まるで、お城のなかだ。
「銀子」
うろうろとしすぎていたのか、占部の業を煮やしたような声に気づいて、足を止める。
「こっちだこっち」
こっちとはどっちなのか分からず、前と後ろを見ても誰もいない。と、右側の襖がいきなりがらりと開き、面倒くさそうな顔をした占部がいた。
襖の間から、中庭が見える。
椿だろうか。木がすらりと伸びていて、苔の緑とのコントラストがとてもきれいだった。
「なにうろうろしてんだ。ほら、こっちが中庭だ」
「う、うん。ごめんなさい」
そういえば、と思う。何故、今椿が咲いているのだろう、と。
椿は、まだ早い気がするのだが。それでも、きれいな赤色を誇るように咲いている。
中庭の前に行くと、椿の木は思ったよりも大きかった。
砂利のうえに、椿の花が散っている。
占部は草履を履いて椿の前に立ち、それを見上げた。
「こいつは、生きている」
と、今まで観たこともないような、真剣な顔だちで銀子に伝えた。




