七、
那由多の声は、たしかに銀子を安堵させた。
一ト月以上聞いていなかった声。やさしい声色。
「那由多、半年もかかるって、ほんとう?」
(そうだね。それくらいかかってしまうだろう。けれど、これくらいですんだと思えば、そうそう長い月日ではないよ。)
「まったく、腕が鈍ったんじゃねぇのか」
(そうかもしれないね。)
ふっと、どこかかなしそうにほほえむ気配を感じた。
那由多は、この氷のように冷たい湖のなかにいる。姿形は見えないけれど、いるのだ。
さみしいのだろうか。
ずっと、半年もこんなところに閉じ込められて。
「ねえ、那由多。那由多は、ひとりぼっちじゃないよ。占部も、私もいる。ここは、冷たくてさみしい場所。でも、私はいつも、那由多のことを覚えているよ」
銀子のちっぽけなことばは、那由多や占部のかなしみを取り去ることはできない。
そんなことは分かっている。その氷は、とてつもなく硬いのだから。
けれど、言わざるを得ない。
あなたはひとりぼっちじゃないのだと。
(……ありがとう、銀子。そのことばだけで、わたしは救われる。)
「……那由多。なんのためにここに呼んだ? なにか、あるんだろ」
(今言ったとおり、わたしは当分ここから出られそうにない。……鴉には気をつけるんだ。なぜ今になって、不倶戴天がここに来ることが出来たのか、わたしは疑問だった。おそらく――おそらく、だが、月虹姫とつながっていたのかもしれない。)
「どういうこと!?」
(月虹姫は、そういう少女だからだよ。鵺の森とヒトの世界の境界を壊そうとしているのだろう。推測にしかならないけれどね。)
境界を壊そうとしている――。
そうしてしまえば、ヒトは妖怪がいる鵺の森を恐れ、危害を加えるかもしれない。
けど、そうなっては月虹姫自身の身も危うくなるのではないだろうか。
「境界を壊せば、あの女の思う黄金郷とやらが築けると思っているんだろ。すべてを我が手中にってな。――馬鹿馬鹿しい」
「……月虹姫は、そんなことを考えているの?」
(そう考えることができるほど、力を持っているんだよ、銀子。あの少女は、ねがいを叶えることができる力を持っていてなお、求める。底知れぬ、願望をもっているんだ。)
ふたつの、別々の世界を無理矢理ひとつにして、その頂点に月虹姫がたつということだろうか。
そんなことが、本当にできると思ってるのだろうか?
狂っている、と思えばそれまでだ。
けれど、狂人と捨てて切ることができるほど、銀子はあまりにもその少女のことを知らない。
何を思って、そう考えるのかも分からない。
「銀子。あいつのことを分かろうとするな」
占部のことばに、ぎくりと身体がこわばる。
うん、と頷くことしかできずに、ただまるい水銀のような色をしている湖を見下ろしていた。
(占部。わたしがいない間、銀子をよろしく頼むよ。)
「分かってるよ……」
彼はそれだけつぶやき、そっと立ち上がった。
指先がかじかんでいる。銀子はそっと指先をこすって、もう一度那由多のいる場所を見下ろした。
(さあ、もうお帰り。銀子、占部。すまなかったね、こんな場所まで呼びたててしまって。)
「ううん、いいよ。那由多が生きていてくれて、うれしかったから」
「行くぞ、銀子」
「うん」
那由多の声はもう、聞こえなかった。
それでも、声を聞けてよかったとおもう。
氷の精霊たちがこちらをじっと見つめていた。硝子のような剣をもって、まるで那由多がいる洞窟の番人のように、立っている。
彼女たちがいる間は、きっと那由多はだいじょうぶだろう。
入り口には、来るときに襲ってきた鴉たちの氷像があった。顔を恐怖におののかせたまま、凍りついている。
銀子はそれを見上げてから、すぐに出口にむかった。
「……」
空を見上げると、もう昼になろうとしているようだった。月は遠く、白い。
初夏のあたたかい風が、銀子のかじかんだ指先をあたためた。
「銀子」
「なに?」
「朝言ったことは、謝る」
みずみずしい、清らかな風。占部の角から垂れている緋色の幣が、風にのってなびく。
「朝言ったこと?」
「おまえに私の何が分かると、言ったな」
「あ、うん……」
けれど、きっとそれは本当のことだ。
だれにも、自分以外のひとの心のなかなど、分からない。
自分でさえ分からないというのに、他のひとが分かろうとするなんて、もしかすると無駄なことではないのだろうか、とおもっていた。
那由多の想いも、占部の想いも、銀子の想いも、みんな――。
「いいよ。だって、本当のことでしょう。みんな、自分の気持ちや想いで精一杯だから」
「……そうかもしれない。だが、それは不倶戴天のような人間のことだけだ。自分のことだけを思っているから、信じているから、ああいったことができる。すこしでも――おまえのような、気遣うことができる想いをもっているのなら、あんなことはできないはずだ」
あんな、ひどいことを。
自由があまりきかなくなった足を、一歩ふみだす。
空を見上げて、白い、かすむような月をみつめた。
「悪かった」
「大丈夫。私は、占部が悪いなんておもっていないよ。……誰もわるくなんてない」




