四、
新月の日だった。
銀子はそっと布団から抜けだして、庭にむかった。
目が覚めたのだ。
なぜだろう。だれかが呼んでいるような気がした。声も聞こえていないのに。
月がでていない夜は、すこしさみしい。
庭にでると、暗い空がひらけていた。
真っ暗だ。
月もでていないから。
銀子の髪の毛が、風にゆれる。
初夏の、すこしなまぬるい風がほおを駆けぬけた。
「だれか、いるの」
おちた椿が、風にのってころころと転がる。
紺の浴衣の裾も、足にもつれるようにゆれた。
伊予姫は静かにたたずんでいる。
彼女のほかに、だれかがいるような気配がした。
風が軽やかにあそぶ音。
銀子は息をのんで、その音をきいた。
やわらかな風の音。空のおと。
「……」
ちいさな鳥がいた。
きれいな鳥。なまえもわからない、うつくしい鳥。
きっと、それは夜だからだろう。
月のない夜にきた鳥は、じっと銀子をみつめていた。
夜目がきくのだろうか?
その澄んだ瞳は、まっすぐ顔をあげている。
「だれ?」
鳥が羽ばたいた。
そして、銀子の肩にそっと降りたつ。
けれど、そのやわらかな命は啼くことはなかった。
その固いくちばしが開いても、なにも音をかなでることはなかった。
「あなた、声がでないの?」
鳥は銀子のことばに同意するように、顔を上下にうごかす。
そして、どこかにいざなうように、宙に舞った。
空を旋回して、銀子を待っている。
「まっていて」
彼女は反射的に、鳥がいいたいことを理解した。
部屋に戻り、羽織をはおって、足袋をはく。まだ、夜はすこしさむかった。
下駄を持ってこようと玄関にむかうと、扉をこんこん、とくちばしで叩く音が聞こえてくる。
なんて利口なんだろう。
銀子はそっと扉をあける。
「どこに行く」
「!!」
ぎくりと肩がゆれた。
占部の声だった。
うしろを振り向くと、やはり占部がどこか不機嫌そうに立っていた。
ぼさぼさの赤い髪をそのままにして、彼は頭をかいている。
「鳥が……」
「ああ? 鳥?」
「鳥がね、私を待ってる」
「なに言って……」
鋭い瞳をすっと細めると、彼は眉間にしわを寄せた。
「そこにいるのは誰だ」
扉を半開きにしたままだったからか、鳥は占部を見上げている。うつくしい瞳が占部をじっと見ていた。
「この子、声を出せないみたい」
「……野菜はおまえの仕業だろう? 翡翠」
「え?」
占部が指をならすと、玄関に火が灯った。
あかるい火で、ひすい、と呼ばれた鳥が姿をあらわす。
「あ……っ」
翡翠は、翡翠だった。
きれいな、翡翠色の羽根。目が覚めるような色。
銀子はちいさく息をのんだ。
「銀子。おまえ、どうするんだ」
「この子、行きたい場所があるみたい。ついてこいって言っているみたいだから」
「そうか」
拍子抜けするほど、かるく占部はうなずいた。
まるで分かっていた、とでも言うように。
「なら、行くぞ。そいつのあとを追えばいいんだな?」
「うん」
銀子がうなずくと、彼はすこしだけ笑った。
かすかなほほえみ。
その笑みは、前のように自信に満ちたものではなかった。どこか痛みを抱えているような、繊細なほほえみをたたえている。
彼女はそれをみるたび、胸の痛みを感じるようになった。
それが何なのか、分からない。
哀しみではない気がするけれど、はっきりと感じとることはできない。
固まらない氷のよう。
ゆらゆらとゆれて、どっちつかず。
「銀子」
銀子の名をよんで、うながす。
赤い鼻緒の下駄をはいて、屋敷からふたりは姿を消した。
翡翠は、風を身体にうけてゆっくりと旋回しながら飛んでいる。
まだ、夜明け前。
早朝とよぶにもまだ早い。
月もでていない、とても暗い林のなかを歩く。
占部のまわりに浮かぶ炎だけが、足もとを照らしていた。
「……」
どれほど歩いただろう。
すこし、足がしびれてきた。
「銀子」
心配するように、占部が彼女の名を呼ぶ。
「だいじょうぶ。まだ、歩ける……」
「無理をするんじゃない。すこし、休むか?」
(あなたは、そんなひとじゃない。)
(やさしいけれど、そんなことばを紡ぐひとじゃない……。)
こころのなかでそっと思う。
彼の銀子にたいする心配というものは、おそらくただの「罪ほろぼし」だ。
占部のけがを治したせいで、足がうまく動かなくなった。
そのことを、とても心苦しく思っているのだ。
そう思うと、とても悔しかった。
「ねえ、占部……」
「なんだ」
ずっとずっと言いたかった。
あなたのせいじゃない、と。
「私の足がこうなったのは、あなたのせいじゃないよ……」
「私のせいだ」
きっぱりと、占部は宣言した。
彼はくるぶしをくすぐる草を見下ろして、緋色の瞳をふせる。
こころが痛かった。
しらずしらず、銀子の足がとまった。
鳥の羽ばたく音が聞こえて、木の枝にとまったのだと知る。
「私がためらわなければ、不自由な思いをさせることはなかった」
「……どうして……」
「人間を殺すのは久しぶりすぎたんだよ」
「嘘!」
彼は、自分のこころを見失っているのだ。
自責のおもいが、こころを隠してしまっているのだ。
「あなたは、そんなひとじゃない! そんな嘘をつくひとじゃない!」
「おまえに何が分かる……」
うめくような声色。
占部の鋭い視線が、銀子を突きさす。
見たことがないほどの、冷めた瞳。
それでも銀子は、怖いとは思わなかった。反対に痛むほどの哀しみが、胸をこがす。
「おまえに、私の何が分かる。私がどんな思いで、今まで過ごしてきたと思っている。すべて、すべて、赤の他人のためだ。私は、私のために生きてきたことがない。嘘も真実も、私にとっては私のためじゃないんだ」
かなしかった。
つらかった。
そう言ってほしかった。
それでも占部は、それさえも飲み込んでしまうのだ。




