三、
無事ならば、それでいい、と彼は言った。
けれど、今は喋ることができない。那由多はただ、そのうつくしいエメラルド・グリーンの瞳を開いた。
白い、けがれのない髪の毛は水面がゆれるたびに、風にそよぐように揺れる。
彼は、水銀のような水のなかにいた。
ただただ、そのなかで生きていた。
ここは、丸い湖。
しかし、ただの湖の様子ではなかった。
異様なのは湖を短い木で囲み、白い幣が垂れ下がっている。
まるで、儀式のようだった。
そして、湖があるべき自然が、ここにはなかった。
氷づけの洞窟のなかであった。すべてがこおり、しかし湖だけは生きているように凪いでいる。
吐息さえも凍りそうなほどの、洞窟のなか。
那由多はそこで、生きていた。
目をひらき、そっと眼球をうごかす。
生命の息吹がひとつもない、すべてを凍りつくすこの場所は、久しぶりだった。
那由多が生きながらえるためだけの、場所。
(ああ、そうか。また、わたしは死ねなかったのか。)
くちびるが動く。しかし、口から出てきたのは泡だけだった。
ことばさえ赦されない。
(何度目の罰だろうか――。)
氷をつきさすような、鋭い音が聞こえる。
那由多は、そっと顔をあげた。だれかがのぞき込んでいる。
顔は見慣れていた。
カガネだ――。
那由多は、その顔をぼんやりと見上げる。
「体調はどうだ。白鷺の那由多――。いや、ぼくのあるじ、と言ったほうがいいかい?」
口調は重々しい。
カガネは燃えるような緋の色の瞳をすっと細め、まだいとけないくちびるを結んだ。
(あるじ、か。わたしのことをあるじと呼ぶのは、この森の父王以来じゃないかな。)
那由多の思考を読み取るように、カガネは耳をかたむけている。白い、那由多と似た髪が、しずかに凍ってゆく。
しかし彼は意に介することなく、ただ那由多を見下ろしていた。
(きみは、鵺の森の王。軽々しくわたしのことをあるじなどと、呼ぶのはよしたほうがいい。)
「心配痛みいる。今回は、どれくらいかかりそうかな。――那由多」
(半年はかかるんじゃないかな。この体もだいぶ、ガタがきているからね――。)
「体を換える時期が近づいているのかもしれない。体なら、いくらでも換えはあるけれどね」
(……。この身体が気に入っているんだ。せめて、銀子が生をまっとうするまでは、この身体でいたい。)
「銀子。……銀子、か。風の噂で聞いたよ。足をもっていかれたらしい、と」
那由多の瞳が、そっと哀しげに細められる。
白い衣が水の動きにそうように、揺れ動いた。
奇跡には、代償をともなうということ――。
那由多も知っていた。だからこそ、銀子をヒトから遠ざけたというのに。
しかし。
しかし、そのおかげであの森の草花は息を吹き返した。
占部の怪我もそうだ。
あのままだったら、おそらく――占部のいのちは「ほぼ」失われていたことだろう。
(気の毒なことをした。あの子はまだいとけないというのに。もう、失わせたくはなかった……。)
「これも、鵺の森の意思なんだろう。善し悪しなど、この森には関係ない。すべて、手の内なんだろう」
(辛いことだ。)
「……きみと話したのは一体何年ぶりだろう。ぼくがまだ幼かったころだ。どうかな。すこしは、王らしくなっただろうか」
(鴉とつながっている、と。わたしは銀子に忠告した。それは間違いではなかったようだね。)
「すべては鵺の森のため。ぼくは、鵺の森のためだけに存在しているのだから……」
あわれな王だ、と那由多はかすむ心中でおもう。
王とて、こころがある。気持ちがある。
それなのに、自分を否定している。こころや気持ちなど必要ないという。
「そろそろ、ぼくは行くよ。ここは冷たい。ほかの生物を、きみ以外の生き物のいのちを否定する」
(それがいい。王であるきみでさえ、この冷たさは辛いだろう。)
那由多は瞳を閉じ、カガネが去っていく足音を聞いた。
ここはつめたい。
つめたい湖だ。
それでも、那由多のいのちを繋いでいる。
これは罰。
何人もの妖怪たちを殺してきた、罰。
生きなければならない。
この、ちいさな鳥かごの中で。
白い鳥はゆめをみた。
まだ自分がちいさな鳥だったころのゆめを。
自由に空を舞い、うたい、そして小枝でやすんだ。
けれど、その鳥はやがて羽根をむしられ、地に落とされた。
まるで、外つ国の神話に描かれた堕天使のように。
だがそこに意思はなかった。罪もなかった。
ただ、何らかの「ほかのものの意思」が、白い鳥を地に落としたのだ。
それが――鵺の森の「意思」。
名のとおり鵺の森が、白い鳥の「鳥かご」であった。
森はなにかを恐れるように、鳥に罰をあたえ、そして罪さえあたえた。
なんのための罪や罰なのかわからない。
白い鳥でさえ。
やがてその鳥は空をうらやむことも忘れ、うたうことも忘れ、ただひたすらに――生きた。
生きねばならなかった。
森が、鳥を生かせているのだ。
森が、鳥のいのちを操っているのだ。
そのこと自体が、いのちの冒涜だというのに。
森は、残酷なまでに鳥をもとめた。
ずっとずっと、永遠にも似た時のなかで。




