二、
銀子の足はすこしだけ不自由になったが、自身はとくに気に病むような表情をすることはなかった。
外出するときは、かならず占部がよりそっている。
まるで、罰のように。
それが銀子にとって、とても哀しかった。
占部のせいではない。
銀子の足がこうなってしまったのは。
「もうすこしで、夏がくる……」
空をみあげる。
雲ひとつない快晴だった。襲撃者が死んで、もうじき一ト月がたとうとしている。それは那由多がいなくなって一ト月ということでもあった。
それでも那由多の式神たちは、屋敷のなかにいた。
那由多のかわりに食事をつくり、掃除もしてくれている。
これは計画的だったのだ、と知った。
那由多は、自分がいなくなることを知っていたのだ。
初夏の夕暮れはまだ、肌寒い。
銀子がすわっていた切り株から、かすかな木のかおりが漂っていた。切ったばかりなのだろうか。
そっと立ち上がる。
椅子のようにすわっている状態から立ち上がるのは、それほどおっくうではなかった。
彼女たちがいる場所は、森の奥。
しずかな鳥のさえずりや、草花がゆれる音しか聞こえない場所。
「鵺の森の夏は、それほど厳しくはない」
「そうなの?」
「かといって、涼しいというわけでもないがな」
占部は銀子が歩き出したことを確認すると、うしろを歩いた。
いつもは、となりを歩いてくれるか、銀子の前を歩いてくれていたのに。
赤い幣が、風にゆれる。
「占部」
銀子が立ち止まると、占部も立ち止まった。
大きな瞳は、彼を責めるようだった。
そう思うのは、自身だけだ。分かっている。
銀子がいいたいことは。
「占部。どうして、あなたはいつも哀しそうなの?」
「……別に、哀しくはない」
彼女から逃れるように視線をはずす。
占部の首筋は白い。すこしだけ、やせたと思う。
「那由多がいないから?」
「……あいつがいなくなることを、私は知っていた」
予言をささやくように、彼はつぶやく。
え、と銀子声をもらして、足を止めた。
占部は知っていた。あの晩、那由多が占部にこの娘をたくしたのは、こういう意味だったのだ。
それを現実としてとらえたのは、不倶戴天を那由多が殺した瞬間だった。
あのとき、那由多と不倶戴天は別の場所にうつっていた。
銀子に見せたくなかったのだろう。あの獣の姿を。自分が、人間を殺す瞬間を。
「託されたんだ。那由多に」
それだけ言い放って、そっと目をふせた。
哀しくはない。ただ、こころが海にしずむように、重たかった。
「那由多は……いきているの?」
「生きている」
「ほんとうに?」
「ああ」
銀子の目がゆるむ。安堵したようにそっと息をついた。
やさしい娘。おのれの身さえかえりみない、危うく、うつくしい。
そんな少女は、いま、どこか変わろうとしていた。
つぼみから花へ変化するように。
どこか、こころに憂鬱をうかべるようになった。鵺の森にきたときよりも不安感を覚えていることを、占部は知っていた。
それは、喜ばしいものではなかったのだ。
「よかった……。私、ずっと不安だった。那由多の姿がみえないから」
「あの男は殺しても殺せねぇくらい、しぶとい」
軽口をたたくようにつぶやく占部を見て、彼女はわらった。
それでも、暗い色の花は銀子のなかで徐々に開こうとしている。
そんな鬱蒼としたものを抱えながら、少女と龍は生きていかければならないのだろう――。
「帰るぞ」
「うん」
屋敷に帰ると、藤がでむかえてくれた。
おかえりなさいませ、と藤棚に重たく垂れる、やさしい色の着物を着た彼女はほほえんだ。
「ただいま」
「お夕飯なのですが……」
「?」
彼女はすこし、言いづらそうに手でくちびるを押さえている。なにか問題でもあったのだろうか。
「玄関先に、こんなものが」
うしろに隠してあったかごを取り出すと、そこにはたくさんの野菜が入っていた。
きゅうり、トマト、きゃべつ、おくら、みょうが……。たくさんの、初夏の野菜。
「これが、玄関先に?」
「ええ。銀子どの。これをどうしていいのか分からず……」
「……」
占部はそのたくさん入ったかごに顔を近づけて、においをかぐ仕草をした。
まるで、毒の有無を判別するように。
「いいんじゃねぇか。もらっても。変なまじないもかかってないみたいだし」
「では、そのように。これだけあったら、何にしようか迷ってしまいますね」
藤は笑って、うれしそうにかごを持ち上げた。
誰が、置いていったのだろう。
まったく見当がつかないし、何のために置いていったのか分からないけれど。
彼女が台所で夕食の準備をしている間、占部は考えごとをするように、腕をくんでいた。
那由多の部屋。
墨で白鷺が描かれた屏風がある、あるじのいない部屋は、寂しい。
「占部、どうしたの」
「いや……。すこし、気になることがあってな」
「野菜のこと?」
「ああ。まあそんなに重要なことじゃないが。おまえ、私のけがを治したことを覚えているか?」
今から一ト月と半月前。
銀子がおこした、代償をともなう奇跡。
彼女はかぶりを振った。
あのときは必死で、何がおこっていたのか、はっきり覚えていない。
「そうか。まあ、いいさ。おまえは、浄化したんだ。人間が傷つけた大地を」
「よく分からない……。覚えていないもの」
「あの男は、鵺の森の妖怪たちを焼き尽くすつもりだったようだ。だが、森や林や、建物を焼くつもりはなかった。……気が狂う前は」
狂気に笑う。
あの男の死に様は、占部自身見ていないが――。おそらく、ひどいものだったのだろう。
呪い、祟り、怨み、憎み――すべてを焼き尽くすはずだった。
そう。だった、のだ。
銀子の「たすけたい」ということばが、全てを救った。占部の血液で腐った大地も、救われた。
その場にいなかった、那由多をのぞいては。




