一、
つぐみの力以上だ――。
カガネは草原のなかにいた。
風がふく。
やさしい音。すずやかな温度。
彼女の力。創造さえできるというのか。
草花の生命が絶えたこの場所で、息を吹き返すように現れたこの場所。
カガネのいまだ幼い表情が、畏怖にゆがむ。
「カガネ様! お下がりください! まだ、危険です」
供のものが叫ぶ。
人間がこの鵺の森を穢して、一ヶ月がたった。いまだ、人間が息絶えた場所にあった石からは、黒い煙がまるで怨嗟のようにのこっている。これに触れれば命さえ、おとしてしまうという。
人間が遺した怨みは、ひどいものだった。
あの男は、那由多に噛み殺された。四肢をばらばらにされて。
すさまじいものだった。
人間の死に様は。顔は恍惚にゆがみ、もはや見られたものではなかった。
だが、その人間を憎み、恨んでも、もうそれはうしなわれている。
ただ、いまは悼み、祈っている。
ここにすむ妖怪たちが、みな。
石のあたりは黒ずんでいるが、それを覆うように草花が生きている。死と生が、ここにあった。
銀子がうみだした草花は、しずかに風に揺れている。
「カガネ様」
うやうやしく、男が草むらに膝をおとした。
「どうかしたか」
「カガネ様。ここは危険です。はやくお戻りに……」
「危険なものか。ここは、生命にあふれている。あの娘がうんだ、奇跡だ」
カガネは、空をあおいだ。
空は、初夏のうすい青に染まっている。
彼女はいま、なにをしているのだろうか。
あの舞踏会から会っていない。
おそれを飲み込むことができる、凜とした娘だった。
鴉とつながっているこの鵺の森の王を、強い瞳でみつめていた。
あの娘は強いからこそ、危うい。
つぐみのようにならなければいい、と、おもう。
そのためにカガネができることは、何もない。
たったひとりの少女のために、尽力することは、できないだろう――。
なぜなら、王だからだ。妖怪たちのための、偶像。その偶像には、感情はいらない。ただ悠然とたち、ことばを紡ぐだけでいいのだ。
人格など、どうでもいい。
王は、孤独であり、孤高でなければならないのだ。
父王から、そう教わった。
愛されることはなかった。
愛することもなかった。
そういった意味では、あの龍と似ているのかもしれない。
カガネはそっと、呼吸をした。供のものに気づかれぬように。
みずみずしい、空気のかおりがした。
占部が、銀子の名をよんだ。
銀子はほほえんで、首をかたむける。
カーヴをえがく長い髪の毛が、健康的につやめいていた。
「なに?」
「ほら」
白く、細い手。
占部がさしのばした手を、そっと取る。
銀子の足は、いうことをきかなくなっていた。
歩くことはできるけれど、走ることができなくなっていた。
それは、代償だ。
奇跡をうみだしたことへの。
けれど、銀子はけっして後悔などしていなかった。
すこしも。
「だいじょうぶだよ。ひとりで立てる……」
縁側にすわっている銀子に手をさしのべた彼の手。その手を見上げただけで、そっとかぶりを振った。
「……」
ただ、波打ちぎわに取り残されたような、哀しみがあった。
距離が、できたように感じたのだ。
占部と銀子の距離。それが、ほんのわずかに開いてしまった、と銀子は感じていた。
「銀子」
手のひらを廊下について、そっと、ゆっくりと立ち上がる。
それでもまるで廊下が生きていて、うねったように銀子の足もとが、ぐらりとゆれる。
「あっ」
反射的に、目をとじる。
体に感じるはずの、衝撃。それがなかった。かわりにあたたかい温度をかんじる。
占部の体温だった。
「大丈夫か」
「だいじょうぶ」
大丈夫だと、答えるしかなかった。
かすかな痛みを感じたけれど、かぶりを振ることしかできない。
ゆたかな髪の毛が、ふわっとゆれる。
占部の手は大きかった。銀子のものよりもはるかに。
「……」
恐々と、銀子から手をはなす。
まるで、うしなわれてしまう何かを惜しむように。
「ねえ、占部……」
「なんだ」
「那由多……どこにいってしまったの?」
占部の瞳が、すっと細められる。
緋色の目の色が、もっともっと深くなる。銀子はそっとくちびるを結んだ。
聞いたことはなかったのだ。
銀子が目を覚ましたのは、今から半月前のことだ。半月間のあいだ、眠っていた。
なぜかは分からない。銀子にとって、それはたった一晩のことだと思っていた。
けれど、目が覚めると季節は初夏になろうとしていたのだった。
「……どこに……」
そっと、目を伏せる。
かなしい光が、かすかに見える瞳をさす。
彼女が眼を覚ますと、那由多は――どこにもいなかった。
真っ白な影は、どこをさがしてもいなかった。
屋敷のなかをくまなく探しても。
彼は屋敷のなかではないと、姿をたもっていられないと聞いた。
(どうして……。那由多。あなたはいま、どこにいるの……?)
「銀子。私は」
占部が、なにかを言おうとしている。
けれど、銀子はただぼんやりと屋敷のなかを見渡した。
伊予姫。
伊予姫は、もとの元気をとりもどしているようだった。
幹にふれると、会話はできた。那由多のゆくえも聞いたけども、しらないという。
それでも――彼女は、なにかを隠しているようだった。きつく問うこともできずに、銀子はそっと伊予姫から離れたのだった。




