八、
呼吸がとまった。
水底の奥底に沈んだように、感情がなくなった。
銀子の足は水草にからめられ、暗いなかに閉じ込められた。
明るい場所に、もういけないのではないか、と。
そうおもった。
はじめに、血があった。
血だまり。
拙いうたを歌いあげるような感覚が、次に銀子を襲った。
しらない、とおもう。
知らない世界が、そこにはあった。
血だまり。
黒い煙があがっている。
どす黒い煙が。
いのちのしずくから、黒煙があがる。
うらべ、という単語が、舌をなでた。
彼は、地面のうえに横たわっていた。
龍の姿のまま。
体中から黒煙があがっている。そして、彼がふれた地面は腐り、黒ずんでしまっていた。
「占部……」
銀子がやっと絞りだしたことばは、不確かなものだった。
占部。
血まみれの、痛ましい姿。
それが本当に、あのいつも飄々としていた占部なのか、わからなかった。
それでも銀子の脳は、それを占部だと認識している。
彼がかすかに呼吸するたび、苦しげな呼吸音が聞こえてきた。
そっと、足をふみいれる。
その、腐りきった地面に。
「……占部」
銀子の声にかすかに反応した占部は、ゆっくりと、重たげに首をもちあげた。
にごった瞳。
するどい瞳孔。
銀子をとらえると、それがゆっくりと広がった。なにかをたしかめるように。
「ぎん、こ」
口からは、血液が絶え間なく流れ続けている。
じゅっ、と、地面におちた血液から黒煙があがった。
「占部!」
「来るな!!」
鋭い声に、銀子の足が止まる。
ひどいけがをしているというのに、その鋭い声はいつもの占部のままだった。
身体をおこそうともがく占部。けれど、それは無意味におわってしまう。地をゆらして、彼の身体がふたたび地面に沈んだ。
「くるんじゃない。銀子……」
ひゅうひゅうと、ひどい呼吸音が聞こえてくる。
銀子の足には、水草が絡まったままだった。
暗い水底。
一筋の光さえない、暗黒のこころのなか。
銀子は、そっと足を腐った地面に押し当てる。
下駄がゆっくりと、じめじめした地にしずんだ。
占部の身体は目の前にある。
黒い煙があがる、うつくしかった身体は、いまや血で汚れてしまっていた。
彼の頭に、そっと手をふれる。
「っ」
かさついた血にふれると、鋭い痛みが銀子を襲った。
指先をみおろすと、そこからわずかに血がにじんでいる。
占部の瞳が、もの言いたげに銀子を見つめた。それでも銀子は構ってはいられず、占部にふれる。手のひらに、ひどい痛みを感じた。
ふれて、どうなるということはない。
怪我がなおることもない。
ただ、触れていたかった。
大丈夫だと、あなたを死なせはしないと。
(――わすれないで。)
頭のなかに、つぐみの声が聞こえてくる。
はっと、顔をあげた。
白い影が、腐った地面のうえに立っている。
(わすれないで。あなたのことばを。あなたの、ほんとうのこころを。)
(わたしは駄目だったけれど、あなたは前に進める。わたしの全てを、あなたにあげる。)
(占部をたすけて。那由多をたすけて。わたしの願いを、あなたに託すから。)
(それが、わたしの最後のねがい――。)
彼女はほほえんでいた。
怒りの色をともした瞳は、どこにもない。ただ、銀子の背中をおすように、ほほえんでいた。
雪のような儚く、たおやかな笑みだった。
そして、彼女は消えた。
「占部……」
そっと、ことばに出す。
占部の、以前見たときよりも大きな体をだきしめた。
着物が焼け焦げる音が、においが、あたりに充満する。
それでも構わなかった。
銀子の、自分の体がどうなろうと、焼けて醜いあとが残ろうと。
「う……っ」
なにも、考えられなかった。
ただ、占部をたすけたかった。こころのなかの水底に、かすかな光がさす。
その光はとてもやさしかった。
彼女の雪のように。雪が反射したような、かすかな光。
黒い煙があがる。
痛みが、脳を刺激する。
痛い。
痛いけれど、占部のほうがもっと痛くて辛いはず。
だから、構わなかった。
彼は、いつも銀子を守ってくれた。
こころも、体も。すべて。
「銀子! やめろ!」
「あなたをたすけたい!」
つい先ほどよりも鋭い声が耳朶をうがつ。それでも、銀子はかたくなとしてその腕を離さなかった。
皮膚が焼ける音と、におい。
銀子はくちびるを噛みしめていた。そのくちびるから血がにじんでいる。ゆっくりとその血が細いあごをつたう。
「……!?」
占部が息をのむ音が聞こえた。
傷が、という声。
彼女はただ、必死に彼の頭を抱きしめていた。そのせいで、なにも聞こえなかった。
たすけたい。それだけだった。
「だいじょうぶ」
銀子の声。
あごから流れた血液は、きよらかだった。
赤。
その赤を、占部は見た。
うつくしい赤をしている――。彼の喉が、かすかに動く。
口から出ていた血は、すでになかった。
銀子の足もと。ぼんやりと占部がみつめる。そして鋭い目が、大きく見開かれる。
(……これは……)
二度目に喉がうごいたとき、龍は立ち上がった。体が軽い。
足もと。彼女の足もとには、腐った地面があったはず――。しかし今やそれは花々が咲きみだれ、みずみずしい緑が爽涼と風にゆれていた。
龍の禁忌なる血液は、もうどこにもなかった。あるのは、清い花々。そして、生命力があふれる緑。
あたり一面が、草原のように草花が茂っていた。
銀子の安堵するような吐息。
彼は聞いた。
すずやかな、清廉とした風がほおを駆けるのを。
「銀子!!」
占部の体の傷はもう、ひとつもなかった。
ゆっくりと、スローモーションのように、銀子の体が草原にくずれおちた。
彼の声が、ただむなしく青空が響く。
銀子はゆめをみていた。
ギンイロの海ではなく、つぐみの、孤独な海のゆめを。
長い髪を風にゆらせて、銀子はただひとり、浜辺に立っていた。
そこには、つぐみはいない。
だれも。
月がでていた。
まるい月が。
銀子は、ああ、そうか、と理解する。
(つぐみは消えてしまったんだ。)
(天にのぼった。もう、どこにも……いないんだ。)
そして、銀子はそっとくちびるを開いた。
「ありがとう……つぐみ」




