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鵺の森  作者: イヲ
第八章・破壊・くうのおと
62/129

八、

 呼吸がとまった。

 水底の奥底に沈んだように、感情がなくなった。


 銀子の足は水草にからめられ、暗いなかに閉じ込められた。

 明るい場所に、もういけないのではないか、と。

 そうおもった。


 はじめに、血があった。

 血だまり。

 拙いうたを歌いあげるような感覚が、次に銀子を襲った。

 しらない、とおもう。

 知らない世界が、そこにはあった。

 血だまり。

 黒い煙があがっている。

 どす黒い煙が。

 いのちのしずくから、黒煙があがる。


 うらべ、という単語が、舌をなでた。

 

 彼は、地面のうえに横たわっていた。

 龍の姿のまま。

 体中から黒煙があがっている。そして、彼がふれた地面は腐り、黒ずんでしまっていた。


「占部……」


 銀子がやっと絞りだしたことばは、不確かなものだった。

 占部。

 血まみれの、痛ましい姿。

 それが本当に、あのいつも飄々としていた占部なのか、わからなかった。

 それでも銀子の脳は、それ(・・)を占部だと認識している。

 彼がかすかに呼吸するたび、苦しげな呼吸音が聞こえてきた。


 そっと、足をふみいれる。

 その、腐りきった地面に。


「……占部」


 銀子の声にかすかに反応した占部は、ゆっくりと、重たげに首をもちあげた。

 にごった瞳。

 するどい瞳孔。

 銀子をとらえると、それがゆっくりと広がった。なにかをたしかめるように。


「ぎん、こ」


 口からは、血液が絶え間なく流れ続けている。

 じゅっ、と、地面におちた血液から黒煙があがった。


「占部!」

「来るな!!」


 鋭い声に、銀子の足が止まる。

 ひどいけがをしているというのに、その鋭い声はいつもの占部のままだった。

 身体をおこそうともがく占部。けれど、それは無意味におわってしまう。地をゆらして、彼の身体がふたたび地面に沈んだ。


「くるんじゃない。銀子……」


 ひゅうひゅうと、ひどい呼吸音が聞こえてくる。

 

 銀子の足には、水草が絡まったままだった。

 暗い水底。

 一筋の光さえない、暗黒のこころのなか。


 銀子は、そっと足を腐った地面に押し当てる。

 下駄がゆっくりと、じめじめした地にしずんだ。


 占部の身体は目の前にある。

 黒い煙があがる、うつくしかった身体は、いまや血で汚れてしまっていた。

 彼の頭に、そっと手をふれる。

 

「っ」


 かさついた血にふれると、鋭い痛みが銀子を襲った。

 指先をみおろすと、そこからわずかに血がにじんでいる。

 占部の瞳が、もの言いたげに銀子を見つめた。それでも銀子は構ってはいられず、占部にふれる。手のひらに、ひどい痛みを感じた。

 ふれて、どうなるということはない。

 怪我がなおることもない。

 ただ、触れていたかった。

 大丈夫だと、あなたを死なせはしないと。


 (――わすれないで。)


 頭のなかに、つぐみの声が聞こえてくる。

 はっと、顔をあげた。

 白い影が、腐った地面のうえに立っている。


 (わすれないで。あなたのことばを。あなたの、ほんとうのこころを。)

 (わたしは駄目だったけれど、あなたは前に進める。わたしの全てを、あなたにあげる。)

 (占部をたすけて。那由多をたすけて。わたしの願いを、あなたに託すから。)

 (それが、わたしの最後のねがい――。)


 彼女はほほえんでいた。

 怒りの色をともした瞳は、どこにもない。ただ、銀子の背中をおすように、ほほえんでいた。

 雪のような儚く、たおやかな笑みだった。

 そして、彼女は消えた。


「占部……」


 そっと、ことばに出す。

 占部の、以前見たときよりも大きな体をだきしめた。

 着物が焼け焦げる音が、においが、あたりに充満する。

 それでも構わなかった。

 銀子の、自分の体がどうなろうと、焼けて醜いあとが残ろうと。


「う……っ」


 なにも、考えられなかった。

 ただ、占部をたすけたかった。こころのなかの水底に、かすかな光がさす。

 その光はとてもやさしかった。

 彼女の雪のように。雪が反射したような、かすかな光。


 黒い煙があがる。

 痛みが、脳を刺激する。

 痛い。

 痛いけれど、占部のほうがもっと痛くて辛いはず。

 だから、構わなかった。

 彼は、いつも銀子を守ってくれた。

 こころも、体も。すべて。


「銀子! やめろ!」

「あなたをたすけたい!」


 つい先ほどよりも鋭い声が耳朶をうがつ。それでも、銀子はかたくなとしてその腕を離さなかった。

 皮膚が焼ける音と、におい。

 銀子はくちびるを噛みしめていた。そのくちびるから血がにじんでいる。ゆっくりとその血が細いあごをつたう。


「……!?」


 占部が息をのむ音が聞こえた。

 傷が、という声。

 彼女はただ、必死に彼の頭を抱きしめていた。そのせいで、なにも聞こえなかった。

 たすけたい。それだけだった。


「だいじょうぶ」


 銀子の声。

 あごから流れた血液は、きよらかだった。

 赤。

 その赤を、占部は見た。

 うつくしい赤をしている――。彼の喉が、かすかに動く。

 口から出ていた血は、すでになかった。

 銀子の足もと。ぼんやりと占部がみつめる。そして鋭い目が、大きく見開かれる。


 (……これは……)


 二度目に喉がうごいたとき、龍は立ち上がった。体が軽い。

 足もと。彼女の足もとには、腐った地面があったはず――。しかし今やそれは花々が咲きみだれ、みずみずしい緑が爽涼と風にゆれていた。

 龍の禁忌なる血液は、もうどこにもなかった。あるのは、清い花々。そして、生命力があふれる緑。

 あたり一面が、草原のように草花が茂っていた。




 銀子の安堵するような吐息。

 彼は聞いた。

 すずやかな、清廉とした風がほおを駆けるのを。



「銀子!!」


 占部の体の傷はもう、ひとつもなかった。

 ゆっくりと、スローモーションのように、銀子の体が草原にくずれおちた。

 彼の声が、ただむなしく青空が響く。





 



 銀子はゆめをみていた。

 ギンイロの海ではなく、つぐみの、孤独な海のゆめを。

 長い髪を風にゆらせて、銀子はただひとり、浜辺に立っていた。

 そこには、つぐみはいない。

 だれも。

 月がでていた。

 まるい月が。

 銀子は、ああ、そうか、と理解する。


 (つぐみは消えてしまったんだ。)

 ((そら)にのぼった。もう、どこにも……いないんだ。)

 

 そして、銀子はそっとくちびるを開いた。


「ありがとう……つぐみ」

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