七、
目が覚めた。
そっと身体をおこす。
暁暗はたぬきになって眠っていた。
目をこらして、しずかに立ち上がる。
暁暗はうごかない。
行かないといけない、という無意味な使命感を感じていた。
行って、なにができるのだろう。
行って、だれかを助けることなどできないかもしれない。
それでも、占部の無事を、那由多の無事を信じたかった。すこしでも、はやく。
お社のささくれだった扉をひいて、一気にかけだす。
どこに行けばいいかなんて、わかっていた。
なぜだろう。
足が勝手にうごく。
息が切れて、心臓があつくなる。
けれど、足は生きていた。足がおしえてくれる。
着物のおはしょりが乱れても、裾がよごれても、足はおぼえていた。
鵺の森へのみちを。
それがきっと、鵺の森に認められたということなのだろう。
やがて現れたのは、大きな鳥居。息が切れる。呼吸もみだれる。
鳥居を見上げる。
月を背負うようにしてたつ鳥居。ここをくぐれば、鵺の森にいける。
いってどうなるの、と自問する。
どうすることもできないだろう。
もしかすると、妖怪たちの遺体をみて、激しい胸の痛みをおぼえるかもしれない。
胸をこがすほどの痛みをおぼえるかもしれない。
それでも、信じたかった。
自分のために。そう、自分本位だ。
だから、何があっても自分のせい。
そう言い聞かせる。
手をにぎりしめて、目をつむる。
目をつむっていてはだめだ。
すべてを見なければならない。真実を。
目を開く。
黒い木々がたたずんでいる間にそびえたつ鳥居を、銀子はくぐった。
「……!」
銀子のまだ幼いくちびるがふるえる。
黒ずんだものがふたつ、あった。
煙があがった、それ。
それは、ふたつのいのちだったものだった。
「……」
瞳がふるえ、足の力がなくなりそうになった。
それでも、必死にたつ。
そして、頭のどこかでなにかが――燃えた。
赤い炎が、ともったのだ。
呼吸がとまる。
苦しかった。
けれど、このふたりのほうがもっと辛かっただろう。苦しかっただろう。
ふわり、と、白い影が銀子のそばにおとなう。
白い髪の毛。
白いほお。
赤いくちびる。
「……つぐみ?」
彼女の瞳は、炎のように赤かった。
怒っている――。そう感じた。
「そうだね、つぐみ……。行かないと」
人間のにおいが、銀子をけがす。
銀子はしゃがんで、ふたりに祈りをささげた。
そして、その場から走りだした。
つぐみの想いが、銀子とひとつになる。
怒っていた。とても、とても。
血がにえたぎるぐらいに。
銀子の指先が、その怒りにふるえる。
人間がどこにるのかは、つぐみが教えてくれた。においをたどってくれた。
銀子の瞳が、怒りに濁る。
きよい光は消え、怒りの炎を見つめるように、火照っていた。
人間のいる場所への道に、点々と妖怪たちの遺体が連なっている。
恐ろしさよりも、怒りが銀子を襲う。
こころのなかで、うああ、と叫んだ。
歯の間からもれる、呼吸音。
背中が熱かったけれど、いまは不思議と痛みはなかった。ただ、うるさかった。その熱が。
やがて見えてきたのは黒ずんだ煙だった。
まっすぐに、空に吸い寄せられるようにのぼっている。
銀子はそれを確認して、再び走った。
「が……っ」
黒く濁った炎。
それがうつくしい鱗を裂いた。赤い血がほとばしる。
地面に落ち、そこから煙があがった。
占部の血液は、猛毒である。
龍の血。
それは触れてはならない禁忌。
その禁忌にふれたものは、すべて滅ぼされる。
木や草であろうと、地面であろうと、石であろうと、――妖怪や人間であろうと。
「占部!」
那由多の足は、もう使い物にならなくなっていた。
トラの足のように鋭い爪は折れ、血が散乱している。背の白銀の翼も折れ、羽根があちらこちらに舞い散っていた。
彼の叫びは、むなしく空に消えていく。
「ふふ……っ」
不倶戴天の笑声がきこえてくる。
だが、彼も全くの無傷というわけではなかった。
――右腕がなかった。
流れ出た血液のうえに立つ不倶戴天は、まるで狂人のように笑い狂っている。
あはは、あははは、と、残った左腕を空へのばしていた。
「愛しの那由多。もうすこしで、あなたを殺すことができる……。そのためには、ふふっ、聖なる龍を殺めなければ……」
占部の身体から、煙が上がっている。血液が地面に落ちる前に、空気にとけて蒸発しているためだ。
彼の呼吸は荒かった。
長い口からも、血がしたたっている。
地面にそして空気に落ち、とけ、どす黒い煙を出して蒸発し、空を汚している。
(なんて……)
占部は白くかすむ視界のなかでおもう。
(なんて、無様な……。こんな姿では……)
あの少女の前に立つことはできない……。
ゆらめく意識。
波のように。
風にゆれる花のように。
あの少女のほほえみが脳裏にうかぶ。
きよい笑みをうかべる、清廉な少女。
彼女は血にまみれてはいけない。
血に触れてはいけない娘なのだ……。
(私が龍ではなかったら……。私がふつうの生命をもつことが赦されていたら、あの少女に……)
緋色の幣がつよくゆれる。
すずやかな風だった。
なにかを運んでくるような。
星の光のようにかすむ意識。
龍は、愛されることをねがった。
それは禁忌だった。
永遠の孤独。
晴れることのない霧。
ひとりが恐ろしかった。
孤独が哀しかった。
何千年も、その孤独と共にいた。
その孤独をふりはらうことにも疲れ、やがて――こころは死んでいった。
生も死も、どうでもいいと、妖怪の命も人間の命も、途絶えようが続こうがどうでもよかった。
何にも興味をしめさなかった。
ただ、少量の酒を飲んで、酔えないために酔ったふりをするだけの夜。
それを、一体どれほど続けていただろう。
それが当たり前のことだと、いつから感じていただろう。
死んだような日々に、廉潔な風が吹いた。
それは占部にとってのかがり火だった。
その火は、やがて徐々に燃え広がった。
やさしく、たおやかに。
その炎の名は、銀子といった――。




