五、
銀子は、社のなかに身を潜めていた。暁暗も、扉のすぐ前にすわり、彼女が抜け出せないように見張っている。
社の中はぼろぼろだったが、贅沢は言えない。
食べ物は暁暗が持ってきてくれた。
この林をぬけたあとに、コンビニエンスストアがあるのだろう。
サンドウィッチや、おにぎりに名前があった。
お金は葉っぱじゃないよね、とぼんやりと思った。
「銀子」
「なに?」
「大丈夫。占部どのも那由多どのも強い。負けることはないだろう」
心配させないようにしているのは分かった。
だから頷くことしかできない。
それでも、銀子の脳裏には占部の笑みがこびりついている。
彼はなにを思って、あんなほほえみを浮かべたのだろう――。
まるで、生涯の別れをいうような。みずからの死を暗示するような。
「暁暗」
「なんだい」
「あなたは、鵺の森をでても人間の姿でいられるんだね」
無理矢理、思考をちがう方向にねじ曲げる。
そうでもしないと、こころが疲弊し、死んでしまいそうだった。
彼も驚いた表情をしている。
「ああ。そうだよ。俺は化け狸のたぐいだからね。ヒトを化かすためにヒトのかたちをとることもできる。占部どもおそらく、ヒトの姿をとることができるだろう」
「占部も?」
「時々、占部どのは鵺の森をぬけだしているのさ。夜、いなくなることがあるだろう? 夜の気をすいに行っているんだ」
「夜の気……」
「月の夜のね。ヒトの世界の気を保つことによって、占部どのの気、というものを正常化していると、だれかから聞いたよ。占部どのは、ヒトの世界も守っていたんだろう? そのなごりかもしれないね」
「そうなんだ」
鵺の森の気と、ヒトの世界の気。
そのふたつを織り交ぜて、占部はバランスをとっているのだろう。
今は何時だろう。とても暗い。電気もとおっていない場所だから、光は自然光に頼るしかない。
けれど、水はたくさん買ってきてくれた。食料も、一日分だといって、暁暗はパンやおにぎりを買ってきてくれている。
銀子には、なにもさせてはくれなかった。
林から出て、買い出しに行くことも。
それはきっと、那由多からの伝言だろう。
いなくなった少女がきちんとした身なりで街に出てしまっては、きっと警察が絡んできてしまう。
それでも――。
家族は、銀子のことを探していないだろう。警察が身元をさがしても、きっと名乗りを上げないはず。
無意味だ。
「銀子、寒くはないかい」
「大丈夫……」
しばらく口をつぐんでいた暁暗が、ふいにたずねてくる。
彼はおちつかないように、あぐらをかいた。
やはり、彼も鵺の森が心配なのだろう。それなのに、銀子のお守りをしなければならないことは、辛いことなのだろう。
「暁暗、鵺の森に帰りたい?」
答えは知っているのに問うのは、銀子は臆病だからだ。
彼はあいまいに笑って、「そうだねぇ」と首をかたむけた。
「そりゃ、帰りたいけど。那由多どのには恩があるから、帰ろうにも帰れないよね」
「……ごめんなさい」
「ああいや、そういうつもりで言ったわけじゃないんだ。嬢ちゃんを置いて鵺の森に帰ってしまったら、占部どのに踏んづけられてしまう。それは勘弁して欲しいものだから」
占部。
占部は、いまなにをしているんだろう。
とても不安になる。
自分の手がふるえていることに気づいた。
占部が強いことは知っている。それなのに、どうしてこんなに不安になるのだろう――。
本当にいいの、と、何十回も自問した。
すくなくとも占部や那由多は、銀子がここにいることを望んでいる。
それでも、銀子は銀子だ。
銀子の思いや悩み、こころは誰でもない、銀子のものだ。
だれにも強制されることのできないものだ。
「嬢ちゃん、泣いているのかい」
「泣いてないよ。辛いだけ。暁暗だって、辛いでしょう」
「俺には泣いているように見えるけどね。銀子。きみはまだ幼い。不安で泣くことができる年だよ」
「泣かない。私なんかより辛いひとはたくさんいるもの。泣く資格なんてない」
「嬢ちゃん」
暁暗は、自分のことをほうっておいて、銀子を呼ぶ。
やわらかで、あたたかい音程の声。
暗くてあまりよく分からないけれど、笑っているように聞こえた。
「きみと鵺の森で初めて会ったときのことを、話そうか」
「え? 飴を買いにいったときのこと?」
「いいや。俺がここで嬢ちゃんに会ったのは、あの赤鬼が那由多どのの屋敷につれてきたときだよ。草むらごしに、目が合ったのを思い出さないかい」
「あ……。光る目がふたつ、あった気がする」
「そう。それが俺だよ。銀子」
すこしだけ嬉しそうに、声がはずむ。
そして、あの光る目が暁暗だったことに驚いた。彼が覚えていたことも。
暁暗はそっとあぐらをほどくと、銀子のいる奥に身を寄せた。
頭ひとつぶん高い位置にある肩。
かすかな体温が感じられた。あたたかかった。
「――100年前。俺がまだ若かったころ」
「今も若く見えるよ」
「それはどうもありがとう――。でも俺はもう、きみにとってはじじいだよ。150歳を超えている」
「そうなんだ……」
彼はくすりとわらって、そしてくちびるを開いた。
銀子を安心させるように。
「俺がこちらの世界でいたずらをしていたとき、人間の娘に恋をした」
「恋……」
「ああ。なまえを露子と言った。とても活発で、明るい娘だったよ。俺は人間に化けて、こっそり露子の姿を見ていた。彼女も俺にきづいてくれた。そして、人間として、露子は俺を想ってくれた。けれど、結局は人間。化け狸だと偶然知られてしまったとき、露子は俺に別れを告げたよ。さようなら、ってね」
「……」
「それから俺は、ヒトに恋をすることも、おなじ妖怪に恋をすることもなくなった。まあ、結局をいえば引きずっているんだろうね。露子のことを」
「いまもすき?」
「いいや、そういうわけじゃない」
きっぱりと暁暗は否定した。
露子という娘は、怖かったのだろうか?暁暗のことが。銀子はまったく怖くないけれど、その女性はきっと、恐れたのだろう。自分と、自分たちとちがうものだから。
「やっぱり人間は、ちがうものを怖がるんだね……」
「……でもきみは違ったね」
「だって暁暗はやさしいひとだもの……」
「俺は、きみとヒトの世界で会っているんだよ」
「え……?」
黒い着流しからのびる白い足。それが銀子をなぜかどきりとさせる。
おもわず、暁暗を見上げた。彼も銀子を見つめている。
「銀子。けがを負った狸を助けたことはないかい」
「えっと……。二年くらい前に一回だけ。私の家の山に、山菜を採りに行ったとき」
「そう。それも俺」
彼はいたずらをした子どものように歯をみせて、やさしく笑った。




