四、
黒い影は、炎をまとっていた。
その炎もまた、黒い。
那由多はその姿をただ見つめていた。
どす黒い炎。それが、大勢の妖怪たちの身体を焼いていた。
しかし、木々や建物は焼かれてはいない。器用に妖怪たちのみを焼いていた。
黒い帽子。
黒いコートを身にまとった、異形の人間。
白いほお。
ゆがんだ笑み。
「不倶戴天……」
ふぐたいてん。
彼はつぶやいた。
那由多ではない。その男だ。
「私は、不倶戴天。妖を焼き尽くす、怒りの炎……」
詩を詠うように、不倶戴天はつぶやく。
切れ目の瞳は、黒い。
まるで、深海魚のように。
「そうか。きみが……」
那由多はそっと頷く。そこに怒りの色は見いだせない。
すべてを受け入れるように。すべてをそのまま、見つめているだけだ。
「不倶戴天。きみが妖怪を憎んでいることは分かった。いや、分かっていた、かな。きみのご先祖が700年前、鵺の森を殺したことも分かっているよ」
「そうですか。なら、覚悟ができていますね。白鷺の那由多……。私はずっと、あなたを殺したかった……」
うっとりと那由多を見つめる。
その瞳の黒は、憎しみさえ隠してしまっていた。
「それは光栄だね、不倶戴天」
那由多の姿は、いまやヒトの姿ではない。
白く、うつくしい鳥。
――だった、のだろう。
白銀の羽根は血でよごれ、赤く濁ってしまっていた。
そして何よりも目をひくのは、まるでギリシア神話のキマイラのような姿だった。
いや――。
この森でたとえるのならば、名のとおり「鵺」。
さまざまな動物をつぎはぎにしたような、その姿。
気高くうつくしい獣。そのエメラルド・グリーンの瞳は、だれよりも――冷静であった。
「今までの妖たちはすべて、あなたに捧げる序曲です。愛しの那由多……」
「……」
「あなたは、本能に忠実です。今も私の首をその牙で食いちぎりたいと思っているのでしょう?」
男はわらう。
愛しいものにむけるそのまなざしで。
「本能と理性……くだらないものです。理性など、かなぐり捨ててしまえばいい。ヒトも動物。獣とどう違うのでしょう……」
「不倶戴天。きみは何が望みなんだ。ここで平穏に暮らしていた妖怪たちを殺しつくすことは、きみにとってどのような意味を持つ?」
「私は妖怪が憎い。それ以外のなにがありますか? ああ、あなたを除いて、ですね……」
くすっと笑う男、不倶戴天は、ゆがんだ光をともすその瞳を、那由多にむける。
憎むこと。
それを当たり前のことだと、思っている。
自分のいちばん重要なことだと思っている。
「私はあなたを殺したいほど愛おしい。気高くうつくしい……。今までどれほどの妖怪たちを食いちぎってきたのでしょう……」
「……よく知っている」
「そうでしょう。私はあなたのことなら何でも知っています。愚かな人間の子どもをひろったこともね……」
那由多は鵺の森の裏。
光と影があるように、鵺の森にも表と裏がある。
表の王がカガネならば、裏の王は那由多。
鵺の森に「都合の悪い」ものを、大勢殺してきた。
妖怪であろうと、何であろうと。
血にまみれているのは、占部だけではない。那由多も、おなじだ。
那由多の瞳が不安定にゆれた。
彼のなかの本能が、目の前の人間の血をすすれと、血を浴びよと、うなりをあげている。
ゆらりゆらりと、揺籃のようにふるえている。
「銀子を殺す気かい?」
「彼女は人間であった身だが、今や鵺の森にすむ妖とおなじ。ならば、どうするか分かるでしょう?」
ひずんだ笑み。
男はほほえんでいる。
ずっと、ずっと。
笑いながら、いのちを踏みにじってきた。
男のなかには、なにもなかった。ただ暗闇だけが、ヒトの形のなかに住んでいた。
男は、人間だ。
ゆがんでしまった、哀れな。
やがて男は、ヒトのこころをなくし、(みずから捨てたのだ。)ヒトの形を保っているだけの、邪悪な闇。
「彼女はどんな悲鳴をあげてくれるんでしょうねぇ。ねえ、那由多? そろそろ、おしまいにしましょうか……。あなたに彼女の悲鳴を聞かせることができなくて、至極残念ですが……」
ふ、と、男と那由多の影の間におおきな影ができた。
龍。
怒れる龍が、神々しく鱗を輝かせながら地面におりたった。
――占部だ。
怒り狂ったように緋色の瞳が鈍り、うなりを上げている。
「占部……」
那由多の声は、かすれていた。
地響きが、遠く聞こえてくる。
占部によるものだった。
男は目をほそめ、龍を見上げている。
占部のうねる龍の身体は銀子が見ていたときよりも、一回りも二回りも大きい。
怒りによるものだった。
逆鱗にふれたように。
「おやおや……。守護龍のご登場ですか。あなたは神聖なる龍。私の範囲外なんですけれどねぇ……」
「……占部、なぜ……」
「……」
ことばは出なかった。
占部の感情はすでに怒りで染まっていたのだ。
「まあいいでしょう。神の龍の逆鱗を土産にするのもおつなものです」
「占部!」
爪が地面に食いこみ、へこむ。
地鳴りが近づいてくる。
やがて――ずん、と、地面が突きあげられるように揺れた。
地面から岩がはき出され、空からその衝撃で小岩が降ってくる。
「占部、やめろ!」
「なぜ止める。この男は、鵺の森を殺す。ならば、私が殺してやるのが最善」
「……わたしが引き受ける。この男の目的は、わたしの命だ」
「言っただろう。おまえは死ぬべきではない」
死ぬべきものなど、この森にいない。
占部も那由多も、わかっている。
「この森を守るのが、私の仕事だ。誰にも邪魔させん」
咆哮が、ふたたび地鳴りを呼んだ。




