三、
銀子は走っていた。
背中が痛むが、そんなことに構っているひまはない。
今は、探さなければいけない。
占部を。
那由多を。
銀子が眼目を覚ましたとき、そこは鵺の森ではなかった。
人間の世界だったのだ。
なぜ、と思った。
なぜ、気づかなかったの。
最初に、そう思った。
銀子は、毛布に包められていた。
あたりを見ると、林のようだった。木々がうねるように立っている。
(ここは、鵺の森じゃない。)
反射的に思い、立ち上がる。
足もとに、なにかが落ちた。手紙のようだ。
それを拾い上げて、手紙を開く。
「銀子へ……。はじめに、きみに詫びなければいけない――」
手紙には、まじないをかけたことを詫びる文章と、暁暗にきみを任せるということが書いてあった。
そして、「人間」が襲ってきた、ということも。
急いでいたのか、文字はやっと読めるほどだった。
ざっと血の気が引いていくのを感じる。
「そんな……。どうして……それに、暁暗……?」
彼の名前をそっと呟いた直後、うしろから音がした。
暁暗だった。
彼はいつもの黒い着流しに、猩々緋の羽織を肩にかけている。
「ああ、目が覚めたのか。銀子」
「暁暗! どうして……! 鵺の森は? どうなったの!」
「落ち着いて、銀子。那由多どのから言付かってる。手紙を読んだろう?」
「……那由多? 那由多はどこ!?」
「那由多どのは鵺の森にいる。占部どのもだ。いいかい。銀子。きみは、しばらくの間この奥にある社で暮らすんだ」
「やしろ……?」
暁暗はうなずいて、視線をあげた。林の奥に、きっと社があるのだろう。
けれど、銀子は冷静ではいられなかった。
とても混乱している、と暁暗は思考する。
「鵺の森に、帰らせて! 私――」
「銀子。きみが森に帰って、どうするというんだい? きみはまだ頼りない。那由多どのたちの足手まといにしかならないよ」
「……そうかもしれない。でも私は、鵺の森で死ぬって決めた! ヒトの世界にはもうもどらないって、決めたのに……」
こころに決めたこと。
それは覆すことができない、と銀子は勝手に思っていたのだ。
しかし、それはいともたやすく覆されてしまった。
ぐっと、手をにぎりしめる。
「……分かってる。那由多と占部は私の命を優先してくれた。そのことは分かってる。私が鵺の森に行っても、なにもできない。そのことだって分かってる……」
まるで、自分に言い聞かせるような声の色。
暁暗はそれを見つめたまま、そっと銀子の頭に手をのせた。
「那由多どのも、占部どのも、きみのことを思ってヒトの世界に戻したんだ。そのことを分かってほしい」
「……うん……」
「きみはいい子だね。ちゃんとわきまえている。自分の本心とこころを、客観的に見ることができている……」
「そんなことない!!」
視界がゆがむ。泣いてはいけない、と分かっている。
違った。
暁暗が言ったことは、正しくはない。
すぐにでも鵺の森に帰りたい。そう、銀子にとって鵺の森は「帰る場所」なのだ。
客観的に自分を見ることができるほど、銀子は大人ではない。
歯がみして、今を過ごさなければいけないのだろうか?
苦しかった。
辛かった。
けれど、今いちばん辛いのは、彼らだ。
銀子ではない。
そのことを分かっているのに、胸が痛くて張り裂けそうだった。
「私はいい子でも、聞き分けがいい子でもない。頭では分かっていても、だめ。苦しい。痛い。ゆめをみたもの。たくさんの妖怪たちがが、やさしいひとたちが、無残に殺されていくさまを。たったひとりの人間が、多くのいのちを踏みにじってるところを。そんなことが、ゆるされていいの? 黙って見ていてもいいの?」
「……銀子……」
「那由多たちは、ずっと私を守ってくれていた。いのちを、こころを。それなのに、私は……安全なところにいても、本当にいいの……」
問う。
ほんとうに、これでいいのか、と。
そして、問い続けなければいけない。
これから、ずっと?
ずっと、本当にこれでいいのか、と。
「銀子。そう思っていてもいい。考えていてもいい。けど、今は彼らのことをゆるしていてほしい」
「ゆるす……? どういうこと?」
「きみを、手放したことだ。彼らは、鵺の森を守ろうと戦っている。きみのそばにいない。そのことを、ゆるしてほしい」
「そんなの、当たり前だよ! だって、那由多も占部も、鵺の森にすんでるひとたち。自分がすんでいるところを守りたいとおもうのは、当たり前のこと。それくらい、分かってる……」
暁暗はすこしだけ安堵したように、表情をゆるめた。
それを見上げて、はっとする。
暁暗も、鵺の森にすんでいる妖。
今だって、すぐに帰りたいと思っているはずなのに、銀子のそばにいてくれる。安心させるように、やさしいことばをかけてくれる。
それを無碍にしたくはない。
「……ごめんなさい。暁暗だって、鵺の森にすんでいるひとなのに。心配でしょう?」
「そりゃね、心配だよ。ねぐらがなくなるのは、とても困るし、たくさんの妖怪たちが死んでいくのはとても辛いことだよ」
枯れ茶色の瞳が伏せられる。
とても辛いだろう。苦しいだろう。自分がうまれた場所が消えていくのは。
生きとし生けるもの。
それを否定し、踏みにじることは、人間であってもゆるされない。
銀子は、おもう。
許せない。
生きているのに。妖怪たちだって、人間とおなじように生きているのに。
それをなぜ、いともたやすく奪えるのだろう――。




