二、
2週間後の夜ことだった。
気が高ぶっている銀子を寝かしつけたあと、占部と那由多は向き合い、ただ口をつぐんでいた。
畳のうえには杯が一口ずつ、置いてある。
このあたりの妖怪たちは、カガネの城に避難していることだろう。
そのなかにはおそらく、鴉たちも紛れ込んでいるはずだ。
人間の狂気は、鴉たちさえも怯えさせる。
おそろしいのだ。
ひかりを奪った、人間たちが。
「銀子を……」
那由多が、そっと口を開いた。
杯に注がれた透明な酒が、那由多の顔をうつす。静かな表情をしていた。
「銀子を、頼んだ」
「……おまえはどうする」
「わたしは、ここを出るよ」
「出るっておまえ……」
この屋敷から出てしまえば、那由多は、ヒトの姿をたもっていられない。
白いまつげのかすかな影が、ほおに落ちる。
「ここを出て、星の城に行く。そして、彼女の手助けをしなければ……」
「旭姫か。あいつは強い。おまえが行かなくても、十分だろう」
「あそこに、何人の妖怪たちがいると思う。鵺の森の3分の2は、彼女の城下町にいる。その妖怪たちをすべて、守り切るのは至難の業だ」
「おまえ、全ての妖怪を助けるつもりか? そんなのは無理だ」
「銀子を悲しませたくない。それがわたしがわたしに科した罰だよ。占部」
占部の眉がひそめられる。
那由多の、罪における罰。それは知りすぎていた。
彼が鵺の森にうまれ、そして生きてきた長い年月。そのなかで、いくつの罪と罰をかさねてきたのだろうか――。
「まさか、おまえ……」
死ぬ気か。
そうは言わなかった。那由多は高潔だ。そして誰よりも客観的だ。自分のことでさえ。おのれの死さえも、他人事なのだ。
那由多はそっとほほえんで、杯に手を伸ばす。
「銀子はまだ、ひとりで生きていけない。1週間前、銀子は妖怪たちと共にある、と言ったね」
「ああ」
「彼女はまだ幼い。か弱いヒトの子だ。一時の感情で動くことは、後悔をうむ」
「……人間の世界に返すのか」
「そうだ」
占部の瞳が、かすかにゆれる。
ヒトの世界と、鵺の森の世界は、おなじ時を流れている。しかし、決定的にちがうのは、概念だ。妖怪たちは、時間という概念をあまり重要視しない。長寿だからだ。
「わたしは、何が何でも彼女を生かす。たとえ、彼女から恨まれようと」
「……そうか」
占部はなにも言わなかった。ただ杯を手にして、くちびるにあてる。
いつ、人間がここに足を踏み入れるか分からない。だが、おそらく彼女はゆめをみるだろう。
鵺の森の、凄惨な光景を。
「おまえがそう決めたなら、私はなにも言わん。だが――死ぬな。銀子を生かすように、おまえも生きろ」
「……そう願っているよ」
那由多はこの日の最後まで、おだやかな笑みを浮かべていた。
血がたくさん出ていた。
妖怪たちの血だ。
そして、大勢の妖怪の遺体。無残に殺されてしまった、彼ら。
人間は、ひとりだけだった。
黒ずくめの、男の人。その人が、たくさんの妖怪たちを殺した。
彼は笑っていた。
愉快そうに。
体は血まみれだった。黒い衣装が余計黒ずんで見えた。
咳をする。
目が覚めてしまった。
今は何時だろう。時計も、暗くて分からない。
銀子はこのところ、食事を口にしていなかった。
空腹を感じないのだ。きっと不安なのだろう、と思う。
人間は、自分たちと違うものを嫌悪する。それは、分かっていた。銀子自身、そのせいで捨てられたのだから。
でも、殺そうとまでするだろうか?
分からない。
無差別に殺して、どうするというのだろう。
その人はなにをしようとしているのだろう。そっと、布団からぬけだす。
廊下を歩いて、中庭に出る。背中はまだ痛かった。昨日、抜糸をした。すぐに激しく動けることはできないと分かっていたから、ゆっくりと歩く。
中庭は、伊予姫がいた。
花々は黒ずんで、幹も元気がない。
「伊予姫……」
幹に手をふれても、声が聞こえてくることはなかった。
「銀子」
月のように、蕩々とした声。
ふりむいた先は、占部がいた。表情はどこか、おだやかに見える。
「占部……。どうしたの」
「そりゃ私の台詞だ。寝てたんじゃなかったのか?」
「うん……」
「夢をみたのか」
「……うん」
黒ずくめの男の人。
たったひとりで、大勢の妖怪たちを殺してまわっていた。
そのことを、伝える。
占部は目を細めて、そうか、とうなずいた。
「700年前。そのときは、人間はたったの3人だった」
「3人……」
「むこうは、私たちを生きているものと見ていない。だから、殺すことに何のためらいもない」
「……」
「銀子」
「もどらない。私、ヒトの世界にはもどらない」
占部が言おうとしたことを分かっていたかのように、呟く。
手をにぎりしめて、歯を噛む。
「私と那由多は、おまえを何が何でも生かすと、約束をした」
「どうして? どうして、そこまで生かしたいの?」
「……さあな。だが、私もおまえに生きていてほしい。それだけだ。他意はない……」
風がふいた。
なだらかな、風が。
占部の髪の毛が風に乗った。
赤い幣も。
「恨んでも、憎んでもいい。分かってくれとも言わん。だが、命さえあれば、無意味じゃなくなる。私も、那由多もな」
「……どういう、こと?」
声がふるえる。
分かっていた。どうなるかなんて。
信じたくなかった。
占部が、那由多が、やさしい妖怪たちが行き着く場所は、まだそこであってはならないのに。
「私が死ぬことはない。強いからな」
占部はそう言って、不器用に笑ってみせた。
次の日のことだった。
黒ずくめの男が鵺の森にやってきたのは。




