一、
ぴりぴりとした痛み。
背中の傷だけではない。
占部の、「殺気」と呼ぶにふさわしい感覚が、銀子をつきさす。
「……どういうこと?」
「おまえは、選ばねばならない。ヒトの道の人道というものにしたがうのか、それとも妖の道を選ぶのか」
「こんなの、人道じゃない……」
いきなり歩いたからか、すこし背中が痛かった。
それでも、ぐっと背筋をのばして、占部を見上げる。
そうだ。こんなもの、人道ではない。
(自分とちがう存在を認めない生き物が、ヒトなの?)
ちがう。
きっと、そうじゃないひとだっている。
ヒトに、家族に疎まれ、妖にたすけられた銀子。
だからといって、ヒトが嫌いになったわけではない。人間だって、いいひとはいる。祖父のように。やさしい音楽を聴かせてくれたひとのように。
「妖に助けられたおまえは、おそらく妖の道をえらぶんだろう……」
占部の気が、ふっとやわらぐ。
それでも、その瞳は険しかった。
「だが、今回ばかりはそう言っていられない」
彼はそっと空をみあげて、その青さをたしかめるように目を細める。
春の透明な空の色。
その色は、銀子の胸のうちをゆっくりとなだめてくれた。
「おまえの生死にかかわることだ。いいか。銀子。よく聞け」
「……うん」
「人間がなぜ、鵺の森を見つけたのかは分からないし、どうして今また、鵺の森を襲うのか分からない。だが、妖を殺すためにここにくるのなら、私は容赦はしない」
どういうことか分かるか、と占部は問う。
銀子はそれが分からないほど、子どもでもなかった。
占部はきっと、人間を殺す。
妖怪たちを殺める人間を、殺めるのだ。
それでいいのか、と占部は言う。
「……きれい事なんて、いえない。……どちらかを選ばないといけないんでしょう」
「第三の道があるのなら、私だってそっちを選ぶ。もう、たくさんだ……」
むかし、占部は人間を守っていたと聞く。そして、もう一匹の龍が生まれて、鵺の森にきたのだ。その龍はもういない。ひとが、龍を必要としなくなったからだ。
その守っていた人間に、牙を剥く。その苦しみは銀子には分からない。
「おまえは、人間だ。人間の心をもっている」
「……」
「……まだきみは幼い。ヒトの命をないがしろにすることはできないだろう……。だから、わたしは鵺の森からきみを出そうと思っている。騒動がおさまるまでね」
「いやだ、と言ったら。那由多はかなしい?」
「……銀子」
困ったように、那由多が眉をよせた。
銀子だけ、人間の世界にもどす、ということ。たしかに命は助かるだろう。それでも、銀子のこころは助からない。
銀子だけ助かって、どうしろというのだろう?
鵺の森にすむ妖怪たちが殺されて、嬲られて、銀子は果たして正気でいられるだろうか――。
おそらく、人間を憎むだろう。殺したいほどに。
「私、ここに残る」
「死ぬかもしれんぞ」
「いい」
銀子、とかすれた声で那由多がつぶやく。
彼が銀子のことをとても心配してくれていることは分かっている。
それでも彼女は――もうとっくに決めていたのだ。
「だって私、ここで生きてる。今、鵺の森で生きてる。だから、私はここで死ぬ。鵺の森で生きて、死ぬって決めた」
銀子の瞳は強い。
ゆるぎない「なにか」を持っていた。
占部は、そっと伊予姫にふれる。
声をきくように。繊細な音を聞きわけるように。
それでも、伊予姫は口を開くことはなかったようだ。やがて手をはなすと、再び銀子を見下ろした。
「銀子。後悔することさえ、できなくなるんだぞ。もっと生きたかったと、思うこともできない。何もないんだ。死というものは。死んだら、もう無意味になる。すべてが。生きてきた道でさえも、砂にかき消されるように」
「私、ちゃんと生きてきたかって聞かれれば、生きてなかった。でも、鵺の森では生きてるって思えたんだ。私、それだけでいい」
死の無意味さも、銀子は知っている。
祖父が骨になったとき。
物言わぬなにかになったとき。
彼はもう、銀子に語りかけることも、銀子に音楽を聴かせることもなくなってしまったとき、ああ、死というものはすべてを無意味にするものなのだと、理解した。
過去も、すべて消し去ってしまうのだ。思い出という、不確かな存在のなかにしかいなくなってしまう。
「それだけで、生まれてきた意味がわかった」
「きみがそれを知るには、まだ若すぎる……」
那由多の、苦しそうな声。
風がゆるやかに、伊予姫の花を揺らす。そして、黒ずんでしまった花がころころと転がった。
銀子は痛む背中をまるめて、その花をそっと手にとった。
「花とおなじ。私はちゃんと咲いてた。つぼみのままじゃなかった……。私のなかのギンイロの海。そこにさんごは咲いていたもの。さんごだって、いずれは死んでいく。枯れていく。それとおなじ」
「銀子……きみは……」
彼女の声は、凜としていた。
どこにも迷いはない、というように。鵺の森に来たことが、自分の命のすべてだというように。
占部は、銀子のことばをただ、聞いていた。
そしてあやうい娘だと、理解する。
染められてしまっている。鵺の森に。
「私は、妖怪たちと共にいる」
えらぶのか。おまえは。
妖怪たちの優しさを、信じるのか。
だが聡いおまえだ。
後悔など、しないのだろう。
だからこそ私は――。




