※十、
那由多はひとり、中庭にいた。
伊予姫は椿の花をつけている。彼女は季節など関係なく、つねに咲かせているのだ。
だが彼女の花は、いまや黒ずみ、散ってしまっている。
「これは……」
那由多のつぶやきが、遠い空に消えてゆく。
そっと、枝にふれる。いつもは呼吸をしているように感じるのに、今はそれがない。
ぐったりとしている、と言っても過言ではないだろう。
「伊予姫」
彼女の名をよんでも、もう先刻のような声が聞こえることはなかった。
「一体、何があったんだ。伊予姫……。いや――。以前にもこういうことがあったかな……」
そっと、つぶやく。那由多の白い手が、木の幹をいたわるように撫でる。
あれはもう、700年も前のこと。
彼女は、鵺の森のすべてとつながっている。
鵺の森の意思、というものが、彼女には分かるのだ。
だからこそ、あの700年前の「鵺の森の危機」に彼女は伏せったのだろう。
鵺の森の危機――。
鵺の森にやってきた人間がおこした、残虐な事件。
――忘れもしない。
森に住む妖怪たちを一掃しようとした人間たち。
その危機を知っている妖怪たちはもう、ほとんどいない。
みな、寿命で死に絶えたか、決して口にはしない。
それでも、温厚な妖怪たちだ。憎むことをやめ、もう過去のことだと割り切っているのだろう――。
しかしそれは、那由多の願いにしかすぎない。
だが今は、人間を憎んでいる妖怪はほとんどいない。
憎むことはつらいことだ。かなしいことだ。
それを、長寿である妖怪たちは痛むほど知っている。
「また……あの惨劇が繰り返されるというのか。伊予姫……」
那由多の声は、だれにも届かず、ただ青い空にきえていく。
「700年前」
占部はそっと、昔日を懐かしむようにつぶやいた。
「700年前が、どうしたの。何か、あったの」
「惨劇がおこった。人間たちによる、妖怪の一斉掃討だ」
「一斉、掃討? 妖怪たちを、殺すということ?」
「そうだ」
占部はあぐらをかいたまま、目をすっとほそめる。
繊細な音楽を聴くように。
「人間は、鵺の森を襲った。そして、多くの妖怪たちを殺戮したんだ」
「どうして、そんなことをするの」
「人間と妖怪は違うからだ。妖怪を恐れたんだろう。人間は、自分と違うものを恐れる生物だからな」
「……」
「もっとも、700年も前だ。今生きている妖怪たちは少ないし、生きていても誰も話そうとしない。それくらい、残虐だった」
銀子はおもわず、呼吸を止めた。
心臓を素手で握りしめられたような、痛みを感じる。
「そんなことをした人間は、恨まれて当然だよ。それなのに、どうしてみんな……」
「昔のことだ。昔のことをほじくり返して、喜ぶ奴はいない。そういうことだろ」
「……ねえ、占部。伊予姫が言いたいことって、もしかして、そのことなのかな……」
伊予姫の声が聞こえたと言った那由多。
彼女は鵺の森とつながっている、と占部が言っていた。
虫の知らせというものがあるのならば、伊予姫は、鵺の森になにかが起きるのではないかと言っているのかもしれない。
銀子は立ち上がって、襖に手をかけた。
「どこに行く」
「伊予姫のところ。伊予姫の声、聞こえるかもしれない」
「……しかたねぇな」
占部も立ち上がり、中庭にむかって歩きだす。
おそらく、彼も分かっていたから700年前のことを口に出したのだろう。
700年前――。銀子にとっては、おとぎの国の話のようだ。それでも、その国はたしかに存在した。銀子が生きてきた場所として。
わかっていたの、と尋ねると、占部は「私は耳がいいんだ」と呟いた。
中庭には、那由多がいた。とても、険しい顔をしている。
「那由多……」
「ああ、きたのか」
「伊予姫!」
彼女の花は黒ずんでしまっている。枝もところどころ垂れ、以前のような毅然としたうつくしさはない。
銀子が駆け寄って、そっと幹にふれる。
「伊予姫、どうしたの。いったい、何があったの?」
『――……』
かすかな声が聞こえてきた。
呼吸音。
とぎれとぎれの、かすかな声。銀子は必死にそれをたぐり寄せて、幹に耳をおしつけた。
『きを、つけて』
ちいさな子どものような、儚い声色。
きをつけて、と言った。
「気をつける? 人間たちに気をつけてと、言っているの?」
『そう。700年前の……惨劇が、また繰り返される……』
那由多と占部はなにも言わない。ただじっと、銀子の小さな背中を見つめている。
「どうして、今……」
『……』
彼女はもう、口を開くことはなかった。
ただ、か細い呼吸が聞こえてくるだけ。銀子は体をそっと離して、ふたりに顔をむけた。
「700年前の惨劇が繰り返される、って……。どうしてだろう。もう、妖怪たちを見ることができるひとは、本当に少ないのに」
「だからこそだよ」
那由多の声色は、とてもゆったりとしていた。
これからおこるはずの惨劇を、受け入れるように。
そんなことはあってはならない。
「銀子。きみは見た目人間だ。きみだけは助かるだろう」
「私だけ助かっても、意味ない!!」
占部はなにもいわない。ただ、じっと銀子の叫びを聞いている。
「どうして? 妖怪たちは、いつも私にやさしかった!」
「それは、銀子。きみがやさしい娘だからだよ。他人は鏡なのだから……」
白い狩衣を初春の風にゆらせ、彼はほほえんだ。
やさしい妖怪たちを殺す人間。
どちらが恐ろしいのかなんて、わかりきっている。
「銀子」
どこか冷え冷えとした声をした、占部を見上げた。
緋色の瞳が、銀子をしっかりと見つめている。
そうして、くちびるを開いた。
「おまえは、どちらかになるだろう」
と。




