九、
二日すぎて、ようやく銀子は布団からでることができた。
背中の傷は、きっとあとになるだろう。
いいづらそうに占部が告げても、銀子は「だいじょうぶ」と笑っただけだった。
「はやく動けるようになりたい」
「まだ数週間はむりだな。抜糸もしないといけないと、那由多が言っていた」
「ふうん……」
彼女は抜糸を恐れることなく、ただ頷いてみせた。肩に羽織をかけた銀子は、ぼんやりと窓のない部屋を見つめる。
「この部屋、窓がないね」
「なんだ、今更」
「今更っていうわけじゃないんだけど、時計をみないと朝か夕かわからない……」
「まあ、那由多がここって決めたからなあ。不満なら、那由多に言ってみたらどうだ」
「ううん。いいよ。だって、那由多がくれたんだもの。私に」
白いクロッカスの花が咲くように、銀子はふたたびほほえんだ。
月虹姫を恨むこともなく、ただ笑っている。胃に良いものを、といって那由多がもってきた食事は、すべて平らげた。
最初は痛みで食事さえできなかったが、やっと食べられるようになった。
「銀子、占部。入るよ」
襖の向こうで那由多の声がする。銀子が返事をした。そっと襖を開いて、那由多はエメラルド・グリーンの瞳を細めて、そっとわらう。
「よかった。全部、食べてくれたんだね」
「うん。ごちそうさま」
那由多は音もさせずにすわり、銀子と目線をあわせた。
そして、彼女の額にそっと、死人のような白い手のひらをあてる。
「熱もさがったようだ」
「うん」
「あと1週間たったら、抜糸をしようと思うんだ」
「うん」
聞き分けのよい子どものように、彼女はうなずく。
まだ、痛むだろう。だが、銀子はなにも言わない。
「ねえ、那由多。抜糸したら、動ける?」
「そうだね……。すこし体を休めてからになるかな。すぐに動くと、傷口が開いてしまう」
「うん。わかった」
「おい那由多」
会話にむりやり入ってきた占部は、那由多をえらそうに呼ぶ。
への字に曲げた口をした彼は、どこか不機嫌そうにあぐらにかいた膝をかすかに揺らした。
「この部屋に窓がない」
「そうだね」
「占部、いいのに」
ぽつりと呟いた銀子を無視して、占部は「なんで、窓がないんだ」と問う。
その疑問は那由多のことばで、すぐに解決してしまった。
「ここは、この屋敷の真ん中の部屋だ。なぜかは分かるね?」
おそらく、銀子の身の安全のためだろう。
真ん中なのだから、窓がないのも当たり前だ。
銀子は納得したようにうなずいて、笑ってみせている。
「銀子。窓がある部屋がいいかい? そっちのほうがよければ、窓のある部屋も用意しよう。部屋数だけはあるからね」
「ううん。いいよ。慣れているし、私、ここがいい。那由多がいちばん最初にくれたものだから」
「そうか……」
どこか安堵したような表情をして――そして、すぐに険しげに眉をよせた。
銀子はおもわず目を見開いて、「どうしたの」とつぶやいた。
「占部、銀子」
「?」
「すこし、中庭に行ってくる。伊予姫の声が聞こえた、気がした」
「なんだと!」
占部のするどい声。
もう、那由多や占部にとって何十年も聞いていない、彼女の声。
もしも聞こえたのだとしたら、それは彼らにとっての「玉音」。
「占部。きみは銀子のそばにいてくれ」
「……分かった」
那由多は衣擦れの音をたてて、そっと立ち上がった。
襖が閉じられ、しん、とした耳鳴りがするほどの静けさを感じる。
占部はどこか怒っているようだった。
「占部。怒っているの?」
「ああ? んなことはない」
「……眉間にしわ、寄ってるよ。さっきの那由多みたい」
怒っているように見える占部は、あのな、と呟いたあと、決意が鈍ったように口を閉じた。
喉になにかを詰まらせて不機嫌なように、ふたたび膝をゆらしている。
「伊予姫の声は、私や那由多には聞こえない」
「……精霊たちが見えないのと、おなじことなの?」
「そうだな。那由多に言わせると、時の流れ、らしい。話が逸れたな。聞こえない、というのは、忘却のせいではない」
「どういうこと?」
その存在――。精霊たちのことを忘れてしまうから、聞こえなくなる、見えなくなるということではない。と、占部は言った。
では、どういうことなのだろう、と銀子は思考する。
昔から、人々は目に見えないものを畏れてきた。「恐れ」ではない。「畏れ」なのだ。信じてきたのだろう。それでも時の流れとして、それはふさわしくないと、忘れられ、切り捨てられてきたのかもしれない。
「反対だ。伊予姫たちが、私たちのことを――拒絶しているんだ。おそらく、だがな。私はともかく、那由多はいつだって忘れたことはなかった。気にかけているんだ。それなのに、忘れるから見えなくなるというのはおかしい」
「それは……なんだろう。とても、哀しい気がする」
「……そうかもな」
「拒絶しているんじゃないと思う。忘れられているわけでもないし……。だって、伊予姫や精霊たちは、占部たちのことを見てる。拒絶しているのなら、占部たちのことを見てないよ。梅の精霊が言ってたよ。さみしくないとは言えないって」
「……そうか……」
占部はなにかを思い出すように、そっと目を細めた。
梅の精霊は、「存在は、認知」といっていた。
だから、忘却のせいでも、拒絶のせいでもない。銀子は、そう強くおもう。
「那由多が、伊予姫の声を聞いたって、どういうこと?」
はなしを急に戻して、占部に問う。
彼はとくに驚きもせず、腕を組んだ。
「伊予姫の声は、私には聞こえなかった。那由多にだけ聞こえたっていうことは、それなりの理由があるんだろう」
「……それなりの理由……」
「伊予姫が、強く思ったということだろうな」
「強く思うと、聞こえるの?」
「人によってはな。時折、虫の知らせ、のように聞こえる場合もある」
占部はすっと呼吸をすると、中庭のある場所を見据えた。




