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鵺の森  作者: イヲ
第七章・金木犀の香りをたずさえる
53/129

九、

 二日すぎて、ようやく銀子は布団からでることができた。

 背中の傷は、きっとあとになるだろう。

 いいづらそうに占部が告げても、銀子は「だいじょうぶ」と笑っただけだった。


「はやく動けるようになりたい」

「まだ数週間はむりだな。抜糸もしないといけないと、那由多が言っていた」

「ふうん……」


 彼女は抜糸を恐れることなく、ただ頷いてみせた。肩に羽織をかけた銀子は、ぼんやりと窓のない部屋を見つめる。


「この部屋、窓がないね」

「なんだ、今更」

「今更っていうわけじゃないんだけど、時計をみないと朝か夕かわからない……」

「まあ、那由多がここって決めたからなあ。不満なら、那由多に言ってみたらどうだ」

「ううん。いいよ。だって、那由多がくれたんだもの。私に」


 白いクロッカスの花が咲くように、銀子はふたたびほほえんだ。

 月虹姫を恨むこともなく、ただ笑っている。胃に良いものを、といって那由多がもってきた食事は、すべて平らげた。

 最初は痛みで食事さえできなかったが、やっと食べられるようになった。


「銀子、占部。入るよ」


 襖の向こうで那由多の声がする。銀子が返事をした。そっと襖を開いて、那由多はエメラルド・グリーンの瞳を細めて、そっとわらう。


「よかった。全部、食べてくれたんだね」

「うん。ごちそうさま」


 那由多は音もさせずにすわり、銀子と目線をあわせた。

 そして、彼女の額にそっと、死人のような白い手のひらをあてる。


「熱もさがったようだ」

「うん」

「あと1週間たったら、抜糸をしようと思うんだ」

「うん」


 聞き分けのよい子どものように、彼女はうなずく。

 まだ、痛むだろう。だが、銀子はなにも言わない。


「ねえ、那由多。抜糸したら、動ける?」

「そうだね……。すこし体を休めてからになるかな。すぐに動くと、傷口が開いてしまう」

「うん。わかった」

「おい那由多」


 会話にむりやり入ってきた占部は、那由多をえらそうに呼ぶ。

 への字に曲げた口をした彼は、どこか不機嫌そうにあぐらにかいた膝をかすかに揺らした。


「この部屋に窓がない」

「そうだね」

「占部、いいのに」


 ぽつりと呟いた銀子を無視して、占部は「なんで、窓がないんだ」と問う。

 その疑問は那由多のことばで、すぐに解決してしまった。


「ここは、この屋敷の真ん中の部屋だ。なぜかは分かるね?」


 おそらく、銀子の身の安全のためだろう。

 真ん中なのだから、窓がないのも当たり前だ。

 銀子は納得したようにうなずいて、笑ってみせている。


「銀子。窓がある部屋がいいかい? そっちのほうがよければ、窓のある部屋も用意しよう。部屋数だけはあるからね」

「ううん。いいよ。慣れているし、私、ここがいい。那由多がいちばん最初にくれたものだから」

「そうか……」


 どこか安堵したような表情をして――そして、すぐに険しげに眉をよせた。

 銀子はおもわず目を見開いて、「どうしたの」とつぶやいた。


「占部、銀子」

「?」

「すこし、中庭に行ってくる。伊予姫の声が聞こえた、気がした」

「なんだと!」


 占部のするどい声。

 もう、那由多や占部にとって何十年も聞いていない、彼女の声。

 もしも聞こえたのだとしたら、それは彼らにとっての「玉音」。


「占部。きみは銀子のそばにいてくれ」

「……分かった」


 那由多は衣擦れの音をたてて、そっと立ち上がった。

 襖が閉じられ、しん、とした耳鳴りがするほどの静けさを感じる。

 占部はどこか怒っているようだった。


「占部。怒っているの?」

「ああ? んなことはない」

「……眉間にしわ、寄ってるよ。さっきの那由多みたい」


 怒っているように見える占部は、あのな、と呟いたあと、決意が鈍ったように口を閉じた。

 喉になにかを詰まらせて不機嫌なように、ふたたび膝をゆらしている。


「伊予姫の声は、私や那由多には聞こえない」

「……精霊たちが見えないのと、おなじことなの?」

「そうだな。那由多に言わせると、時の流れ、らしい。話が逸れたな。聞こえない、というのは、忘却のせいではない」

「どういうこと?」


 その存在――。精霊たちのことを忘れてしまうから、聞こえなくなる、見えなくなるということではない。と、占部は言った。

 では、どういうことなのだろう、と銀子は思考する。

 昔から、人々は目に見えないものを畏れてきた。「恐れ」ではない。「畏れ」なのだ。信じてきたのだろう。それでも時の流れとして、それはふさわしくないと、忘れられ、切り捨てられてきたのかもしれない。


「反対だ。伊予姫たちが、私たちのことを――拒絶しているんだ。おそらく、だがな。私はともかく、那由多はいつだって忘れたことはなかった。気にかけているんだ。それなのに、忘れるから見えなくなるというのはおかしい」

「それは……なんだろう。とても、哀しい気がする」

「……そうかもな」

「拒絶しているんじゃないと思う。忘れられているわけでもないし……。だって、伊予姫や精霊たちは、占部たちのことを見てる。拒絶しているのなら、占部たちのことを見てないよ。梅の精霊が言ってたよ。さみしくないとは言えないって」

「……そうか……」


 占部はなにかを思い出すように、そっと目を細めた。


 梅の精霊は、「存在は、認知」といっていた。

 だから、忘却のせいでも、拒絶のせいでもない。銀子は、そう強くおもう。


「那由多が、伊予姫の声を聞いたって、どういうこと?」


 はなしを急に戻して、占部に問う。

 彼はとくに驚きもせず、腕を組んだ。


「伊予姫の声は、私には聞こえなかった。那由多にだけ聞こえたっていうことは、それなりの理由があるんだろう」

「……それなりの理由……」

「伊予姫が、強く思ったということだろうな」

「強く思うと、聞こえるの?」

「人によってはな。時折、虫の知らせ、のように聞こえる場合もある」


 占部はすっと呼吸をすると、中庭のある場所を見据えた。

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