八、
「……あ」
銀子の、乾燥してかすれた声。
「気づいたか」
「私……どうしたの?」
「……」
反射的に口をつぐみ、手を見下ろす。その手はしっかりと、銀子につながれていた。
おもわずその手を離す。それでも銀子はそれに気づかなかったのか、ゆっくりと瞬きをした。
「占部……?」
「おまえ、後悔していないか」
「なにを?」
「鵺の森につれてこられたことだ」
ゆるいカーヴをえがく髪の毛の合間から、瞳がのぞく。
いまだ自分になにがおこってしまったのか、分からないというような、無垢な瞳だった。
「後悔なんて、していないよ。でも、背中がいたい。どうしたんだろう……」
「まだ知らなくてもいい。あとで、那由多が話してくれるだろう」
「うん……。私……」
うつぶせのままの銀子は、どこか苦しそうにくちびるを閉じる。
紙のように白かったほおは、血色がすこしだけ、戻ってきていた。おそらく、もう大丈夫だろう。縫っているから、しばらく身動きは不自由になるだろうけれど。
「占部の炎が、私を導いてくれた……。だから、戻ってこれた。戻ってこれなかったらきっと、私はずっとあの場所で迷い続けていたんだと思う」
「おまえ……迷っていたのか」
「うん」
銀子は瞳をとじて、そっとか細く息をすった。そうしてそのまま、目を開くことなく再び眠ってしまった。
そのほうがいいだろう。
痛みで苦しむよりは、眠っていたほうがいい。
占部の、銀子よりもおおきな手のひらがそっと髪の毛を梳く。
すこしだけ濡れていた髪が、もうすっかり乾いていた。
そっと息をつく。
後悔している、とことばを紡がれることがすこしだけ、怖かったのかもしれない。
占部は救うものをえらぶ。
命をえらぶのだ。
銀子は占部にえらばれた。そして、鵺の森にも認められたのだ。
それでも「帰りたい」と言われてしまうことが、怖かった。
そして、思考する。
もしも銀子が帰りたいと願ったのだとしたら、占部はどうおもうだろう。
失望するだろうか。いや――。当然だろう。人間の世界で過ごしていたのなら、命を狙われることはなかっただろう。
その恐ろしさを知るには、銀子はまだ幼すぎる。
「……」
占部はそっと立ち上がると、銀子の部屋からでた。
伊予姫のいる中庭へとむかい、日が昇りはじめた空を見上げる。
月はどこにもなかった。
薄暗い空。太陽がではじめ、月が白く追いやられる時。
「伊予姫」
占部の声が、雪のように伊予姫の木にふれた。
彼女の声を、もう何十年も聞いていない。聞こえないのだ。声が。そう、銀子に見える雪の精霊の声や、つぐみの声のように。
「私は、どれほどの間、おまえの声を聞いていないんだろうな」
伊予姫という存在を認識している。だが、声を聞けない。それは那由多もおなじだ。彼も、もう精霊の声や伊予姫の声を聞くことはなくなった。
「……時の流れだよ。占部」
おだやかな声。
占部は縁側にいる那由多を見上げる。
「鵺の森も人間の世界とおなじ、時が流れている。それはとても――遅いけれどね」
「そうか。……そうかもしれないな。そうだ、銀子が眼を覚ました。すぐに眠ったがな」
「よかった。起きるまで、眠らせておいてあげよう」
「ああ。そうだな……。ん?」
占部の表情がとたんに険しくなる。
したのだ。
あの、月虹姫のにおいが。
「那由多。あの女が来ていたのか?」
「ああ。何もしないで帰って行ったよ」
「……この私が気づかないとはな。気づいていたらその喉元を食いちぎってくれたものを」
あの女のにおいは、ひとめでわかる。
さまざまな命を喰ってきたにおいだ。そして、喰われた妖怪たちの怨嗟がこもっている、ひどいにおい。
「そんなに簡単にいったら、苦労はしないだろうね」
「相打ちでもいいさ」
「それは困るな。銀子が泣いてしまう」
那由多はこまったように笑う。
銀子が泣くことは、占部にとってどういう意味になるのか、分からない。ただ、心臓を針で刺されたような、かすかな痛みをともなっていたことはたしかだ。
「……那由多。おまえは、銀子のことをどう思っている? おまえが、つぐみはつぐみだと言っていた。それはたしかだろう。なら、なぜおまえは――」
「大切な存在だよ」
そのことばに嘘はなかった。
ただ、それ以上伝えるべきではないと、その瞳がいっている。
占部は口をむすんでから、「そうか」とだけ呟いた。
銀子はまだ、守られるべき存在なのかもしれない。死というものを、身近に感じてはいけない年だ。
死んではいけない。まだ。
だから、守る。守るべき存在だ。
占部と鵺の森がえらんだ、ただひとつのいのちは、まだ消し去るものではない。
「占部」
「なんだ」
「これからも、銀子を守ってやってくれ。彼女は死ぬべき存在ではない」
「……そうだな」
那由多はどこか安堵した表情でほほえんだ。
守るつもりだ。もう、傷つかせない。だが銀子は大人しく守られるだけの少女ではないだろう。
いずれ――その手を血で汚す日がくるかもしれない。
こころがひとつひとつ、壊されるように傷つくのだろう。
そうして、やがて泣くことも忘れてしまうのだ。




