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鵺の森  作者: イヲ
第七章・金木犀の香りをたずさえる
52/129

八、

「……あ」


 銀子の、乾燥してかすれた声。


「気づいたか」

「私……どうしたの?」

「……」


 反射的に口をつぐみ、手を見下ろす。その手はしっかりと、銀子につながれていた。

 おもわずその手を離す。それでも銀子はそれに気づかなかったのか、ゆっくりと瞬きをした。


「占部……?」

「おまえ、後悔していないか」

「なにを?」

「鵺の森につれてこられたことだ」


 ゆるいカーヴをえがく髪の毛の合間から、瞳がのぞく。

 いまだ自分になにがおこってしまったのか、分からないというような、無垢な瞳だった。


「後悔なんて、していないよ。でも、背中がいたい。どうしたんだろう……」

「まだ知らなくてもいい。あとで、那由多が話してくれるだろう」

「うん……。私……」


 うつぶせのままの銀子は、どこか苦しそうにくちびるを閉じる。

 紙のように白かったほおは、血色がすこしだけ、戻ってきていた。おそらく、もう大丈夫だろう。縫っているから、しばらく身動きは不自由になるだろうけれど。


「占部の炎が、私を導いてくれた……。だから、戻ってこれた。戻ってこれなかったらきっと、私はずっとあの場所で迷い続けていたんだと思う」

「おまえ……迷っていたのか」

「うん」


 銀子は瞳をとじて、そっとか細く息をすった。そうしてそのまま、目を開くことなく再び眠ってしまった。

 そのほうがいいだろう。

 痛みで苦しむよりは、眠っていたほうがいい。

 占部の、銀子よりもおおきな手のひらがそっと髪の毛を梳く。

 すこしだけ濡れていた髪が、もうすっかり乾いていた。

 そっと息をつく。


 後悔している、とことばを紡がれることがすこしだけ、怖かったのかもしれない。

 占部は救うものをえらぶ。

 命をえらぶのだ。

 銀子は占部にえらばれた。そして、鵺の森にも認められたのだ。

 それでも「帰りたい」と言われてしまうことが、怖かった。

 そして、思考する。

 もしも銀子が帰りたいと願ったのだとしたら、占部はどうおもうだろう。

 失望するだろうか。いや――。当然だろう。人間の世界で過ごしていたのなら、命を狙われることはなかっただろう。

 その恐ろしさを知るには、銀子はまだ幼すぎる。


「……」


 占部はそっと立ち上がると、銀子の部屋からでた。

 伊予姫のいる中庭へとむかい、日が昇りはじめた空を見上げる。


 月はどこにもなかった。

 薄暗い空。太陽がではじめ、月が白く追いやられる時。


「伊予姫」


 占部の声が、雪のように伊予姫の木にふれた。

 彼女の声を、もう何十年も聞いていない。聞こえないのだ。声が。そう、銀子に見える雪の精霊の声や、つぐみの声のように。


「私は、どれほどの間、おまえの声を聞いていないんだろうな」


 伊予姫という存在を認識している。だが、声を聞けない。それは那由多もおなじだ。彼も、もう精霊の声や伊予姫の声を聞くことはなくなった。


「……時の流れだよ。占部」


 おだやかな声。

 占部は縁側にいる那由多を見上げる。


「鵺の森も人間の世界とおなじ、時が流れている。それはとても――遅いけれどね」

「そうか。……そうかもしれないな。そうだ、銀子が眼を覚ました。すぐに眠ったがな」

「よかった。起きるまで、眠らせておいてあげよう」

「ああ。そうだな……。ん?」


 占部の表情がとたんに険しくなる。

 したのだ。

 あの、月虹姫のにおいが。


「那由多。あの女が来ていたのか?」

「ああ。何もしないで帰って行ったよ」

「……この私が気づかないとはな。気づいていたらその喉元を食いちぎってくれたものを」


 あの女のにおいは、ひとめで(・・・・)わかる。

 さまざまな命を喰ってきたにおいだ。そして、喰われた妖怪たちの怨嗟がこもっている、ひどいにおい。


「そんなに簡単にいったら、苦労はしないだろうね」

「相打ちでもいいさ」

「それは困るな。銀子が泣いてしまう」


 那由多はこまったように笑う。

 銀子が泣くことは、占部にとってどういう意味になるのか、分からない。ただ、心臓を針で刺されたような、かすかな痛みをともなっていたことはたしかだ。

 

「……那由多。おまえは、銀子のことをどう思っている? おまえが、つぐみはつぐみだと言っていた。それはたしかだろう。なら、なぜおまえは――」

「大切な存在だよ」


 そのことばに嘘はなかった。

 ただ、それ以上伝えるべきではないと、その瞳がいっている。

 占部は口をむすんでから、「そうか」とだけ呟いた。


 銀子はまだ、守られるべき存在なのかもしれない。死というものを、身近に感じてはいけない年だ。

 死んではいけない。まだ。

 だから、守る。守るべき存在だ。

 占部と鵺の森がえらんだ、ただひとつのいのちは、まだ消し去るものではない。


「占部」

「なんだ」

「これからも、銀子を守ってやってくれ。彼女は死ぬべき存在ではない」

「……そうだな」


 那由多はどこか安堵した表情でほほえんだ。

 守るつもりだ。もう、傷つかせない。だが銀子は大人しく守られるだけの少女ではないだろう。

 いずれ――その手を血で汚す日がくるかもしれない。

 こころがひとつひとつ、壊されるように傷つくのだろう。


 そうして、やがて泣くことも忘れてしまうのだ。

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