七、
かすかな音が。
鈴の音のような軽やかな音が、する。
月が出ている。
白い髪の毛が、風もないのにゆったりとゆれた。
「ごきげんよう。那由多」
那由多のやわらかな瞳が、とたん険しくなる。
黒く、つやのある髪の毛。緋袴を身につけ、白くうつくしい千早をはおった少女がほほえんでいた。
「なにをしに来たのかな。……月虹姫」
ぞっとするような、冷たい海のような声。
月虹姫は、黒目がちの瞳を三日月にほそめて、赤いくちびるをひらいた。
「ふふ……っ。わたしがあなたに会うために、たくさんの鴉たちを欺いてきたのよ。すこし、感激してくれてもいいじゃない」
「きみを歓迎することは、今までもこれからもないはずだけれどね」
「あいかわらず、つれないひと」
月虹姫は少女のようにほほえんで、部屋のなかをゆっくりと見回す。
やがて、なにかに気づいたように黒曜石の瞳をほそめた。
那由多はすわったまま、月虹姫を見据えている。彼女は「なにか」をおこしても、不思議ではない。
しかし、月虹姫は那由多を殺す気など全くない。
那由多のように聡明な妖怪を殺すなど、月虹姫はしないのだ。
彼女が殺したがるのは、おろかな妖怪たちだけ。
しかし、その基準というものは曖昧で、形づくられてはいない。まだ、幼い少女なのだ。たとえ、何千年生きていようとも。
「あれ? あの子、死んでなかったんだ」
「……」
「やだなあ。そんな怖い顔しないでよ。わたし、あの子の力がほしいの。だから、本気で殺そうなんて思ってなかったよ」
「死んでもおかしくなかった」
「まあ、死んでしまっても仕方がなかったけど。最近、わたし、手加減できないの。なんでかわかる?」
那由多の瞳がすっと細められる。
うすいくちびるは閉じられ、銀子には決して見せない、冷めた表情をした。
おそろしいほどの冷たさが、月虹姫の瞳をなでる。
それでも彼女はたのしそうに笑って、首をことんと傾けた。
「あなたが手に入らないからだよ」
幼い少女は、まるでつれない恋人を見つめるような目で、那由多を上目づかいで見上げる。
ピンク色の爪のさきを、そっと噛み、にっとくちびるの端をあげた。
不気味なほほえみだった。
「わたしは、誰のものにもならない」
「だから、ほしいの。わたしはあの子の力よりも、あなたがほしいのよ。那由多」
「無い物ねだりは、きみの得意分野だったね。わたしは銀子を守る。きみとは敵対しているはずなんだ」
「へぇ……。めずらしいのね、那由多。あなたがそんなにもあの子を思っているなんて。だって那由多。あなたは――いつも、一歩下がったところで鵺の森を見ていた。だれよりも冷静で、だれよりも聡明で、だれよりも――冷徹だったのに」
ふっ、と風がふく。
那由多のまとう空気が変わったのだ。月虹姫の表情がかすかにこわばり、きゅっとくちびるを結ぶ。
すわったままの那由多は口の端をゆがめた。
エメラルド・グリーンの瞳が闇を見つめるように、黒ずむ。
「愚かなのはどちらかな。月虹姫」
「……」
「きみがどう生きようと、どう死のうとわたしには関係ない。興味もない。だが、銀子は殺させない」
「どうして、そんなにあの子がいいの。つぐみの力を持っているから? 助けられなかったから? そんなの、傲慢だよ。那由多」
「どうとでも言えばいい。だが、銀子は銀子だ。つぐみではない。それに、きみが傲慢ということばを使うとはね。驚きだ」
くちびるをゆがめたまま、彼は呟く。
かすかな、風の音。
月が出て、やさしく那由多の髪の毛を照らしている。
だが、彼の瞳はそのやさしい光を見つめることなく、ただ月虹姫を見上げていた。
ぞっとするほどの冷たい表情。
月虹姫が唯一、恐怖する存在。
それが――那由多だった。
しかし、彼女との力の差は、歴然だ。月虹姫の力はすべてを圧する力だ。しかし、那由多の力はせいぜい式神を操る程度だ。すくなくとも、彼女はそう認識している。
それでも――なぜこんなに、恐怖するのだろう――。
彼女はそう思考する。だが、答えは出なかった。
「……それでも、わたしはあなたを諦めない。決して。だってわたしは全てを持っているんだもの」
黒い髪の毛をふるわせると、彼女は月の夜に溶けて消えてゆく。
金箔がちるように、那由多の部屋がちらちらと輝いた。
那由多は瞳をふせ、ふと息をつく。
「冷徹、か……」
まるで自分自身を嘲るように笑む。白く、病人のような手を握りしめた。するどい黒い爪が手のひらを血で汚す。
「愚かなのは、どちらだったのかな……」
そのことばは夜に散って、消えた。
私は、そっと白い地面にふれた。
地面はとても冷たくて、これは雪なのだと、はじめて知る。
月が出ていた。
銀色に輝くまるい月。
ちらっと、赤い光が私の前で踊った。
だれだろう。
「だれか、いるの」
ああ、そうだ。
あれは、占部だ。
占部の炎だ。
ゆらゆらと揺れて、私をいざなう。
やさしい光をともしてくれている。私がすすむべき道は、私が決めなければいけない。けれど、今、私はさ迷っていた。
どこにいけばいいの。
死は、私にとってまだ遠くていいの?
そっと手をのばす。
月をつかむように。
あたたかい感触が、たしかにそこに存在していた。




