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鵺の森  作者: イヲ
第七章・金木犀の香りをたずさえる
50/129

六、

 死んだら、私はどこにいくんだろう。

 人間の世界で死ぬことと、鵺の森で死ぬこと。どうちがうんだろう。

 おなじ?

 おなじなのだろうか。

 それとも、ちがうのだろうか。


 ここはどこだろう。

 何もない。


 ただ、夜空だけがひろがっている。

 ギンイロの海も、つぐみが眠る海もない。

 ただ、しろい地面がずっとずっと続いている。



「私はどうしたんだろう……」


 そっと体に手をふれた。その手は、べっとりと血がついていて、喉がひきつる。


「ああ、そうだ……。私、だれかに……」


 私は殺されたんだろうか。

 死んだら、どこにいくんだろう。

 どこにも行かないのだとしたら、私はまだ死んでいないのだろうか。


 ただ、歩く。

 うしろを振りかえると、白い地面に足跡がついていた。

 ああそうか、これは雪なんだ。

 真っ白な、清い雪のうえに血が点々と落ちている。

 いのちのしずく。

 それらが、落ちてしまう。

 かき集めることはしない。

 もう、元に戻らないものだから。

 いのちは、ひとつだけ。

 失ったらもう、おわってしまうもの。


「私が私を失ったのは、私が弱かった。ただ、それだけのこと」


 だれかを恨むことはない。

 那由多が言っていた。恨むことはとてもつらいこと。


 そうだね。そうかもしれない。

 私は、恨まない。

 だれも。

 そうだ。恨んだら恨んだぶんだけ、私は壊れてしまう。

 私はまだ弱いし、臆病だから。


 那由多、占部。

 どこにいるんだろう。

 どこに行けば、あの場所にたどりつけるんだろう。

 あの、やさしい場所に。







 銀子の背中は、ばっさりと斬られていた。

 着物と帯が裂け、血がむきだしになっていた。


「……これは……銀子……」


 屋敷に銀子を運び込んだ直後、那由多は険しい表情をして銀子を見下ろした。

 血まみれだった。

 血にふれたほおも、髪も、手も、くるぶしも。


「那由多。頼む。銀子を助けてくれ……」


 銀子をかかえた占部は、らしくないか細い声で呟いた。

 青白いほお。くちびるはかすかに開いたまま、細く呼吸をしている。


 ――まだ、生きている。まだ、間に合う。


「部屋へ運んでくれ」


 銀子の部屋に、彼女の細い体をうつぶせに横たえる。

 布の上に横たわった銀子の背中からは、絶え間なく血が流れていた。


「この切り傷。もしや……」


 那由多はそっと着物をはだけさせる。白い肌と正反対の、椿のような色の血液がこびりつき、見るも無惨な傷口が広がっていた。


「占部。薬草を持ってきてくれないか」


 血にぬれた着流しを翻し、占部は薬草が置かれている暗室にむかった。

 銀子の背中は、呼吸をするたびにゆっくりと動いている。


「……えぐられたような傷口。これは、まさか……」


 斬られた傷ではない。

 まるで、ノコギリのような刃の乱れたもので殴られたような傷だ。

 だが、占部はなにも言っていなかった。

 「だれか」がいたのなら、占部はそのだれかを殺していただろう。

 だが、いのちが枯れたにおいはしなかった。おそらく、「だれか」という存在はいなかった。

 姿のみえないもの、ということは――。

 那由多はすぐにその存在に行きついた。


 姿を見せなくとも傷つけることができる存在――。


「……月虹姫か……」

「なんだと!!」


 薬草が入った壷を持ってきた占部が声をあげる。

 那由多のそばにその壷をおき、彼は音もなくたちあがった。


「どこに行く気だい」

「……どこでもいいだろ」

「銀子のそばにいてあげてくれないか。彼女は、さまよっている。その手を引いてやってくれ」


 きつく手を握りしめる占部の姿が見える。

 私は、とかすかな声が聞こえてきた。

 那由多の手は薬草の、毒々しい緑色に染まっていて、その手を銀子の背中に置く。


 ちいさなうめき声。

 生きているあかし。

 血が徐々に止まってきていて、那由多はそっと息をついた。


 鵺の森は人間の世界のような十分な施設はない。しかし、薬草は豊富だった。


「血は止まった。あとは縫うだけだ。だが、血が流れすぎている。……今晩が山だ。だから、占部。銀子のそばにいてやってくれ」

「……分かったよ」


 手に火であぶった針を持ち、皮膚をぬうための黒い糸をとおす。器用に縫ってゆくさまを、占部は目をそらさずに見据えていた。


 ――気づけていたら。


 そう、占部はふいにおもった。


 ――もし、かすかな力の残滓に気づけていたら。


 これは後悔という感情だ。

 手のひらからこぼれおちるいのち。

 それを見て見ぬふりをして、占部は生きてきた。いのちの重さなど、占部はどうでもよかった。鵺の森を守れれば、それでよかったのだ。

 それでも――銀子は……。


「やさしい娘だ。銀子は、誰も恨まない。誰も――憎まないだろう。月虹姫にさえ」

「……そうかもしれないね」


 そっと布を銀子にかける。

 ゆっくりと呼吸する銀子の顔はまだ、真綿のように白い。


「処置はおわった。わたしはすこし、やることがある。占部。あとは頼んだよ」

「……わかった」


 立ち上がった那由多は、そのまま出て行っていった。

 銀子のかすかな、頼りない呼吸音だけが響く。


「おまえは……鵺の森にきたことを後悔するかもしれないな」


 いや、それはないだろう――。

 ことばにした直後、否定する。

 銀子はここで暮らすことを決めていた。それをみずから否定することはないだろうから。


「いや――後悔しているのは私のほうか……」


 浅葱色の、ゆたかな髪の毛をそっと、水にふれるようにすくう。

 血液によごれた髪の毛でも、うつくしいと思う。


「おまえが傷つく姿を見たくないと思って、――守ろうとしたんだがな」


 それも、もう「うそ」になってしまった。

 銀子のまだ育ちきっていない手にそっとふれる。

 ためらいはあった。

 まだ、清らかな手だ。汚れのない手だ。血で染まるわけもない。

 その手に、血で汚れた手でふれてもいいのだろうか、と――。


「守れなかった」

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