六、
死んだら、私はどこにいくんだろう。
人間の世界で死ぬことと、鵺の森で死ぬこと。どうちがうんだろう。
おなじ?
おなじなのだろうか。
それとも、ちがうのだろうか。
ここはどこだろう。
何もない。
ただ、夜空だけがひろがっている。
ギンイロの海も、つぐみが眠る海もない。
ただ、しろい地面がずっとずっと続いている。
「私はどうしたんだろう……」
そっと体に手をふれた。その手は、べっとりと血がついていて、喉がひきつる。
「ああ、そうだ……。私、だれかに……」
私は殺されたんだろうか。
死んだら、どこにいくんだろう。
どこにも行かないのだとしたら、私はまだ死んでいないのだろうか。
ただ、歩く。
うしろを振りかえると、白い地面に足跡がついていた。
ああそうか、これは雪なんだ。
真っ白な、清い雪のうえに血が点々と落ちている。
いのちのしずく。
それらが、落ちてしまう。
かき集めることはしない。
もう、元に戻らないものだから。
いのちは、ひとつだけ。
失ったらもう、おわってしまうもの。
「私が私を失ったのは、私が弱かった。ただ、それだけのこと」
だれかを恨むことはない。
那由多が言っていた。恨むことはとてもつらいこと。
そうだね。そうかもしれない。
私は、恨まない。
だれも。
そうだ。恨んだら恨んだぶんだけ、私は壊れてしまう。
私はまだ弱いし、臆病だから。
那由多、占部。
どこにいるんだろう。
どこに行けば、あの場所にたどりつけるんだろう。
あの、やさしい場所に。
銀子の背中は、ばっさりと斬られていた。
着物と帯が裂け、血がむきだしになっていた。
「……これは……銀子……」
屋敷に銀子を運び込んだ直後、那由多は険しい表情をして銀子を見下ろした。
血まみれだった。
血にふれたほおも、髪も、手も、くるぶしも。
「那由多。頼む。銀子を助けてくれ……」
銀子をかかえた占部は、らしくないか細い声で呟いた。
青白いほお。くちびるはかすかに開いたまま、細く呼吸をしている。
――まだ、生きている。まだ、間に合う。
「部屋へ運んでくれ」
銀子の部屋に、彼女の細い体をうつぶせに横たえる。
布の上に横たわった銀子の背中からは、絶え間なく血が流れていた。
「この切り傷。もしや……」
那由多はそっと着物をはだけさせる。白い肌と正反対の、椿のような色の血液がこびりつき、見るも無惨な傷口が広がっていた。
「占部。薬草を持ってきてくれないか」
血にぬれた着流しを翻し、占部は薬草が置かれている暗室にむかった。
銀子の背中は、呼吸をするたびにゆっくりと動いている。
「……えぐられたような傷口。これは、まさか……」
斬られた傷ではない。
まるで、ノコギリのような刃の乱れたもので殴られたような傷だ。
だが、占部はなにも言っていなかった。
「だれか」がいたのなら、占部はそのだれかを殺していただろう。
だが、いのちが枯れたにおいはしなかった。おそらく、「だれか」という存在はいなかった。
姿のみえないもの、ということは――。
那由多はすぐにその存在に行きついた。
姿を見せなくとも傷つけることができる存在――。
「……月虹姫か……」
「なんだと!!」
薬草が入った壷を持ってきた占部が声をあげる。
那由多のそばにその壷をおき、彼は音もなくたちあがった。
「どこに行く気だい」
「……どこでもいいだろ」
「銀子のそばにいてあげてくれないか。彼女は、さまよっている。その手を引いてやってくれ」
きつく手を握りしめる占部の姿が見える。
私は、とかすかな声が聞こえてきた。
那由多の手は薬草の、毒々しい緑色に染まっていて、その手を銀子の背中に置く。
ちいさなうめき声。
生きているあかし。
血が徐々に止まってきていて、那由多はそっと息をついた。
鵺の森は人間の世界のような十分な施設はない。しかし、薬草は豊富だった。
「血は止まった。あとは縫うだけだ。だが、血が流れすぎている。……今晩が山だ。だから、占部。銀子のそばにいてやってくれ」
「……分かったよ」
手に火であぶった針を持ち、皮膚をぬうための黒い糸をとおす。器用に縫ってゆくさまを、占部は目をそらさずに見据えていた。
――気づけていたら。
そう、占部はふいにおもった。
――もし、かすかな力の残滓に気づけていたら。
これは後悔という感情だ。
手のひらからこぼれおちるいのち。
それを見て見ぬふりをして、占部は生きてきた。いのちの重さなど、占部はどうでもよかった。鵺の森を守れれば、それでよかったのだ。
それでも――銀子は……。
「やさしい娘だ。銀子は、誰も恨まない。誰も――憎まないだろう。月虹姫にさえ」
「……そうかもしれないね」
そっと布を銀子にかける。
ゆっくりと呼吸する銀子の顔はまだ、真綿のように白い。
「処置はおわった。わたしはすこし、やることがある。占部。あとは頼んだよ」
「……わかった」
立ち上がった那由多は、そのまま出て行っていった。
銀子のかすかな、頼りない呼吸音だけが響く。
「おまえは……鵺の森にきたことを後悔するかもしれないな」
いや、それはないだろう――。
ことばにした直後、否定する。
銀子はここで暮らすことを決めていた。それをみずから否定することはないだろうから。
「いや――後悔しているのは私のほうか……」
浅葱色の、ゆたかな髪の毛をそっと、水にふれるようにすくう。
血液によごれた髪の毛でも、うつくしいと思う。
「おまえが傷つく姿を見たくないと思って、――守ろうとしたんだがな」
それも、もう「うそ」になってしまった。
銀子のまだ育ちきっていない手にそっとふれる。
ためらいはあった。
まだ、清らかな手だ。汚れのない手だ。血で染まるわけもない。
その手に、血で汚れた手でふれてもいいのだろうか、と――。
「守れなかった」




