三、
札から、かげろうのような火があふれる。
それは波のように、そっと銀子の髪の毛にふれた。
それでも髪に火が燃え移ることはなく、ただあるじの髪で遊ぶように、浮かんでいる。
「だめだよ」
銀子がささやく。
火は炎とよぶにはまだ、つたない。
「私はまだ、弱いもの。でも、急には強くはなれない。分かってる。鵺の森の時間はとても長いから、ゆっくりと、強くなればいいって……」
火は、一瞬燃え上がると、とたんに消えていく。
やさしい火だった。
銀子のことばを肯定してくれたような気さえ、した。
銀子の姿をじっと見つめている目があったことを、彼女は知らない。
その視線が凍るように冷たく、するどい棘のように凶暴的だったことも。
春が近かった。
梅のかたいつぼみが、ゆるやかに綻ぼうとする季節。
那由多の竹林のそばに、梅の木があった。
銀子はそれを見上げて、そのうつくしいつぼみに笑いかける。
そこには、梅の木の精霊がいた。
精霊ではないかもしれないけれど、銀子にとっては精霊のようにうつくしく見えた。うめ色の羽衣を身にまとい、ゆらゆらと体をゆらせている。
「お嬢ちゃん。私が見えるのね?」
「うん。見えるよ」
「そう。私の姿が見える妖怪たちも、すこしずつ減ってきてしまった。那由多どのも、占部どのも、もう私の姿は見えないみたい」
「さみしくないの?」
「そうね……。さみしくないといえば嘘になる。だって、私はここにいるんですもの」
「うん、そうだね。みんな、なんで見えていないんだろう」
梅の精霊は、ふわふわとした羽衣をまといながら、わらった。
まるで内緒話をするように、彼女は銀子の耳にくちびるを寄せる。
彼女の声は、どこか幼く聞こえた。
「私たちの存在は、認知なの」
それだけ言うと、彼女は銀子のそばからそっと離れた。
どういうこと、と問おうとしたけれど、梅の精霊の姿はもう、どこにもなかった。
「消えちゃった……」
ぼうっと立ちすくんでいると、竹林のほうからかすかに残っている雪を踏みしめる音が聞こえた。
反射的に身構えると、そこには水干を身につけた、那由多の式神が立っていた。
名前をたしか、瑞音と言っただろうか。
「瑞音!? 久しぶりだね」
「銀子どの!」
彼はとても険しい表情をしていた。
なぜだろう、とても緊迫しているような――。
瑞音は銀子に駆け寄り、懐から脇差しのような、小ぶりの刃を取り出した。
「銀子どの。お下がりください。ここは危険です」
「瑞音、どうしたの。何があったの?」
「我が君――那由多さまの結界をやぶり、ここまで来た鴉がいるようです」
「鴉!!」
銀子の声がかたくなる。
梅の精霊は、鴉がきたことを知って姿を消したのだろう。
「……」
ここで逃げたら、鵺の森にきたときとおなじだ。
立ち向かうことの恐ろしさも、まだ知らない。それでも、怖いといって逃げてはだめだ。
銀子の世界には、たしかにさんごが育っているのだから。
「だめだよ。下がらない。私は――もう、逃げない」
「銀子どの。銀子どののお命はひとつなのです。私ども式神の命はいくつもあります。だから――」
「もう、遅い」
凍えるような声。
その声は、以前聞いたことがある。
葛籠だ。
黄金色の髪の毛。亡霊のようなたたずまい。
灰鼠の着流し。緑色の静脈が見えてしまうような、透きとおる白い肌。
那由多とおなじか、すこし薄い、エメラルド・グリーンの瞳。
「葛籠……」
銀子の細い声を聞いた葛籠は、驚いたようにその瞳を見開いた。
「驚いたな。覚えていたのか」
「わすれないよ。だって、私の命を狙っているんでしょう。忘れたくても忘れられない」
彼はくちびるの端をあげて、皮肉そうに、不器用に笑う。
望んでいない、とでも言うかのように。
「そうか――。そうだったな。では、覚えているだろう。次に会ったときは殺す、と。俺の願いのため、その命もらい受ける」
「……そう。私のことを憎んでいないのに、あなたは私を殺すんだね」
「そうだ」
きっぱりと、彼は肯定した。
銀子とて、死にたいわけではない。ちゃんと生きると決意したのだ。
「でも、私は死にたくない。まだ、死んじゃだめなんだ。だから、あなたと戦わなくちゃいけない」
「ほう」
葛籠は片眉をあげて、興味深そうに彼女の目をみつめた。
彼の瞳には、以前と違う銀子の姿がうつっていたのだろう。一度目を伏せ、そして、緑色の静脈が見えそうな手を銀子にむけた。
黙って聞いていた瑞音が銀子の前に、まもるように立つ。
「瑞音。だめだよ。ここは私が何とかするから、占部を呼んできて。私の足じゃ、きっと瑞音よりとても遅いから」
「ですが――」
「大丈夫」
銀子は青が強い、浅葱色の瞳を葛籠にむけた。
かたくうなずいた瑞音は姿を変え、クロウタドリになる。黒い羽を散らしながら、屋敷のほうへと飛び去っていった。
「どうして、行かせたの。占部はとても強い。あなただって、殺されるかもしれないのに」
「そうだな。そうかもしれない」
「……あなたは、死ぬのがこわくないの?」
「さぁな。俺には分からん」
薄いエメラルド・グリーンの瞳を銀子に向け、彼はくちびるを開いた。
直後、鋭い風が吹く。
木々をなぎ倒すような力ではなく、ナイフのように鋭く、とがった力だった。梅の枝が切られ、うすい雪の上に落ちた。
「……梅の枝が……」
葛籠の姿を視界に入れるようにして、落ちた枝を見下ろす。
切り口はとても鮮明だった。
「何……?」
葛籠の顔が、かすかにゆがむ。
そんな表情をさせた理由が分からなかったが、銀子は注意深く彼を見つめた。
「お前、なにをした」
顔を疑問にゆがめたまま、銀子を睨む。
なんのことか分からなかった。
札もなにも使っていないし、占部がもう来たわけじゃない。
「……言霊か」
「私はなにもことばにしてない」
「……」
ふっと、風が吹く。
やさしい風だった。
そして、銀子は見たのだった。
つぐみの姿を。




