二、
「すこしずつ、強くなっていくのね」
ギンイロの声が聞こえる。
そうか。ゆめを見ているんだ。
「みて。さんごも育ってきている。でも、さんごを荒らそうとする妖たちもいる」
「……」
銀のひかり。
うつくしい鱗が水に反射して、きらきらと輝く。
銀子は空中に浮かぶようなギンイロを見上げて、まぶしそうに目をほそめた。
さんごを荒らそうとする妖怪たち。きっとそれは鴉のことだろう。
こころのなかに踏み込み、土まみれにしようとする鴉たち。
自分の望みをかなえるために、ほかの妖怪たちを殺すことは、きっと間違っている。
だが、自分の力だけで叶えられないこともある。
それを月虹姫に求めているのだろう。
「気をつけて。鴉たちは、あなたを諦めているわけではない。狙っているの。たとえ、鵺の森の王が味方であろうとも、それは些細なこと」
「些細なこと……」
「そう。カガネとて、まだ鴉のうちがわに入り込めていない。カガネ以上に信頼を置いている妖怪たちがいるもの。鴉はカガネを訝しんでいる。命の危険もあるでしょう」
カガネ。
あの王は、一体なにを考えているのだろう。
味方だと言った彼のそれが本心なのか、いまだわからない。
嘘かもしれない。本当なのかもしれない。
それでも、命をかけていることはたしかだ。それが何のためなのか、まだ見分けがつかないけれど。
「……ねえ、ギンイロ。私はまだわからないよ。どうすればいいのか」
「それでいいの。さんごは急には育たないのだから。焦らないで。強くなることを」
「うん……」
「鴉にはどうか気をつけて。こころをゆるさないで。こころは、あなただけのものなのだから」
彼女はそっと月のようにほほえんでから、海から消えていった。
「……こころは、私だけのもの……」
胸に手をあてる。
足もとに、さんごが咲いている。
ゆるやかに、天空へ伸びていた。きれいなさんご。薄紅色のさんごは、銀子のこころだと言っていた。
なにもなかった海のなかに、さんごがたしかに育っている。
そっとまぶたを閉じると、銀子の意識は浮上していった。
目が覚める。
窓がない部屋は朝なのか夜なのか分からないが、時計があるので窓がなくとも時間は分かる。
光がなくとも起きられるのは、慣れだろう。
それほど、ここにいる。それでも、鵺の森にきてから時間がたっていないような気もした。
髪の毛が伸びない。
けれど、爪はこの前切った。
一体、何ヶ月ぶりだろう。
ふいに、ギンイロが言ったことばをおもいだす。
こころだけは、自分のもの。
そうだ。
こころは、だれにもあげられない。
こころだけは。
「……起きよう」
そっと起き上がると、手際よく着物に着替える。帯を締めると、目が不思議と冴える気がした。
顔を洗って、朝ごはんを食べるために、那由多の部屋へ向かう。
しあわせなことだ。
朝起きて、ごはんを作ってくれるひとがいるということは。
「おはよう、那由多……」
「おはよう。どうしたんだい。そんな哀しそうな顔をして」
お盆から机に白磁の茶碗を置いた那由多は、そっと首をかたむけた。
白い髪の毛がゆれる。
銀子はなにを言ったらいいのか分からずに、ただうつむくことしかできない。
「ゆめを見たんだ」
それだけ、呟いた。
那由多は座布団のうえにすわって、銀子にもすわるように促す。
「きみのゆめは、大切なものだ。わたしに聞かせてもいいとおもうのなら、聞かせてくれないか」
「うん」
銀子は彼のとなりに座って、くちびるを開いた。
ギンイロが言った、カガネのこと。鴉のこと。そして、こころは自分だけのものだと言ってくれたことを。
那由多は銀子のことばをゆっくりと、噛みしめるように聞いてくれた。
聞き終えたとき、彼はやさしい瞳で銀子をみおろした。
いとおしいものを見るような瞳。
すこしだけ、照れくさくなってそっとうつむく。
「銀子。きみはやさしい子だ。だから、苦しんでしまうのだろう」
「カガネがほんとうはどんなひとなのか、分からないんだ。味方なのかもしれないし、私を騙しているのかもしれない……」
「……カガネのことは、カガネしか分からないよ。彼は孤高の王だ。誰にもこころを許さない。誰にもこころのなかを見せない。鴉とつながっているのも、そういうことを月虹姫が知っているからだろう」
うん、とうなずいた。
こころのなかを見せない。ゆるさない。それはある意味、「自分のこころは自分だけのもの」ということだろう。
それでもそれは、とても――辛いことなのではないだろうか。
「カガネは、幸福なのかな?」
「彼が王になったのは、今から200年前だ。先王が亡くなり、その一ト月後には、もう彼は王になっていたんだ。当時、彼はまだ幼かった……。彼は気高く、毅然としていた」
昔話をするように、彼はそうっとつぶやく。
銀子は彼のことばの続きを待つためにくちびるを閉じ、彼のエメラルド・グリーンの瞳を見据えた。
「それだけだよ。幸福なのかと問われれば、わたしは――不幸だと思う。彼は、ただの偶像だ。けれど、哀れではない。彼は、彼の信念があり、それを貫いている。それを哀れだとは言えないだろう――」
彼はそれだけ言うと、口を閉じた。
占部が部屋に入ってきたからだ。
「なんだ、辛気くせぇ話しやがって」
「あ、占部。おはよう」
「あー。ったく、朝からよくそんな会話できるなあ」
彼は頭を掻きながら、どかっと座布団の上に座りこむ。大きなあくびをして、机のうえにある朝食に目を向けた。
ししゃもと、けんちん汁。そして卵焼きに白米。
すこしだけ冷めてしまっているけれど、占部は目を輝かせてししゃもをつまんだ。
やはり、那由多のぶんだけししゃもはない。
「ししゃもか。久しぶりだなあ。私はこれだけは好きなんだ」
「きみが最初に食べたのがししゃもだったからね」
「刷り込み?」
「ばか、そんなんじゃねぇよ。卵が好きなんだよ!」
「ふうん」
銀子が言ったことばを占部は一蹴してしまうと、指でつまんんだまま口に入れた。
「占部、行儀が悪いよ」
那由多が苦笑いをしながら指摘しても、占部は次々にししゃもを口に入れている。ちゃんと噛んでいるのだろうか。
「さあ、いただこうか」
「うん」
銀子と那由多はいただきます、と手を合わせた。




