一、
舞踏会からおよそ半月がたった。
鴉たちが銀子を襲うこともなく、ただ平和な時間が流れている。
カガネが言った、襲うことも少なくなるということは、本当だったのだろうか。
「……」
そっと、伊予姫を見上げる。雪がふり、徐々に地面を白く染め上げていた。まだ、だれも触れていない地面は純白のまま、汚れていない。
「雪がきれいだね」
呟いたことばに誰もとどかず、ただ空にきえていく。
聞いているとすれば、伊予姫だけだろうか。
銀子は、コトのことばを引きずっていた。
人間の愚かさ。人間を守る気持ちが分からないと言った、コト自身の思い。それは、きっと本心だろう。
すみかを奪った人間。それを憎む気持ちは当然だと思う。逆に、なぜ人間の銀子によくしてくれているのだろう。旭姫も、月江も――那由多も、アソウギ通りの妖怪たちも。
たとえ性格が温厚でも、憎む思いはある。それは、当然のことだ。
人間とおなじ、感情があるのだから。
だから、受け入れることしかできない。
飲み込むことしかできない。
「そんなところにいると、風邪を引くよ」
やさしい声。
顔をあげると、那由多がほほえんでいた。真っ白な髪の毛。まるで、雪の結晶をあつめたような、きれいな白。
「那由多」
「どうしたんだい? なにか、悩みごとでもあるようだね」
エメラルド・グリーンの瞳を、銀子のこころを見つめるように細めた。
そっとうつむく。
うん、と素直に言えなかった。
それでも那由多は、それさえ見透かしたように、ゆっくりと銀子のとなりにすわった。
「どうしてわかるの?」
「わかるよ。わたしにはね」
「……あのね。那由多。どうして、人間を憎まないの? すみかを奪った、愚かな人間たちのことを」
羽のような髪の毛が、風に乗ってふわりとゆれる。
白いあごが見えた。彼は空を見上げて、くちびるを開く。
「銀子。人間も妖怪も、憎むという感情はもろいものだ。とてもね。永遠に憎むことはとても、辛いことだよ。自分の身に、とても辛い塊をためこんでいくということだ。だれも、そんなことは望まない。例外はあるかもしれないけれどね」
「私……ここにいて、いいのかな。那由多たちと一緒にいていいのかな」
「どうしてそう思うんだい?」
とてもやさしい声。
那由多はやさしい。だから、すぐに返事をしない。
ふっと、鼻先に白い切片が舞う。
雪だ。
けれど、それほど寒くはない。だから、きっとすぐにやんでしまうだろう。
「嫌われることがいやだから、じゃないんだ。人間は、人間のいるべき場所にいなくちゃいけないんじゃないかって……」
「それはちがう。銀子。もしきみが、人間の世界に未練があって帰りたいというのならば別だ。けど、いるべき場所にいなくてはいけない、ということはないと思うんだ。わたしはね。きみがいたい場所にいればいい。だれも、それを否定することはできないよ」
「……いたい場所に、いる……?」
「そう。きみがいたい、と思う場所だ。だが――未練があっても、もう、戻ることは難しいだろう……」
「いいんだ。私は、ここにいたいって思っているから。鵺の森に認められたっていうことでしょう? だから、未練は切り捨てる。もう、もどらないって決めたから」
「きみは強い子だね」
那由多のきれいな瞳を見て、わらってみせる。
そうだ。
もう、もどらない。
人間ではなくなったからじゃない。
受け入れてくれたからだ。人間の銀子を。そして、なによりも――自分で決めたのだから。ここで生きていこう、と。
「人間じゃなくなるってまだ分からないけど、だいじょうぶ。私、もうひとりじゃないから。那由多も、占部もいてくれるから、平気」
「……それでいい。きみはひとりではない。決して」
「うん」
うなずいて、そっと空をみあげる。
太陽に反射して、雪がきらきらと輝いていた。
那由多は、銀子がいたいと思う場所をつくってくれた。それがきっと、自身の居場所となるんだろう。
橘の家でさえ、居場所はなかったのに。
「居場所があるって、とてもうれしいことだね」
「そうだね。銀子。きみの言うとおりだ」
だから悲しむなんてこと、できない。
そんなことできない。
「そういえば、占部はどこにいったんだろう。今日、朝から見ていないね」
「ああ、彼ならまた、朝から酒でも飲んでいるんだろう。最近、飲む回数が増えているような気がするね……」
「また、お酒飲んでいるんだ。大丈夫かな?」
「まあ大丈夫だろう。占部から、本当は食べ物を食べないでも生きていけると聞いただろう? だから酒をいくら飲んでもいいんだろう。きっとね」
「どうして、食べないでも生きていけるの?」
那由多はそっと目を伏せて、どこかかなしいことを紡ぐように、くちびるを開いた。
「彼は、龍だ。命そのものを守るための、守護龍。だから、命をいただくことをしないんだ。本来はね」
「やっぱり、さみしいね」
「そう。だから、彼に食べ物をすすめているんだ。最初はまったく食べようとしなかったけれど」
「そうなんだ……」
命そのものを守る。
だから、命をいただくことはしない。
それは、占部にとってあたりまえのことだったのだろうか?
けど、那由多が占部を救ってくれた。
(でも、私は?)
(私は、占部に恩を返すことが出来ているのだろうか。ずっと、私を守ってくれていた。だから――。私は、占部に……。)
守ってもらってばかりではいけないと言うこと。それはずっとまえから分かっていた。
占部がゆめを見てうなされたとき、銀子は自分自身の無力を知った。
なにもできない。それがこんなにも悔しいことだったなんて。
いや――。
なにもできない、ということが当たり前だった。当たり前でいいと思っていた。
(でも、それじゃいけない。)
銀子のこころのなかを察したのか、那由多はなにも言わず、そっと銀子の頭に触れた。
それでも、その手に甘えてはいけないのだ。
銀子が甘えれば、那由多は受け入れてくれるだろう。
それでは、だめだ。
「那由多。私、ちゃんと生きる。ちゃんと自分自身で考えて、かたちづくっていきたいと思う」




