十、
どこまで信じていいのか分からない。
すべてが嘘で、すべてが本当なのかもしれない。
そのことさえ見据えているのか、カガネは口もとをゆがめた。
「まあ、信じろと言われて信じるような馬鹿ではないだろう。それでいい。鵺の森に住むものは温厚とはいえ、狡猾なものもいる。気をつけることだ」
「……」
ふたたび口をとじると、カガネはそのまま背をむけ、去っていく。
その背中は、とてもちいさく見えた。
「王というのは、つねに孤高でなければならない」
「占部?」
「孤高で、孤独なんだよ。まあ、私には関係ないがな」
「……誰かに味方するとか、敵対するとか、ないのかもしれないね。カガネを見ていると、そうおもう」
だから、誰かが味方になることもないのだろう。
それは寂しいことだ。辛いことだ。
銀子には、それがすこしだけ、分かる。
なにも言わない占部は緋色の瞳をほそめ、彼女をみおろした。
そして、あやういものを見るように、くちびるを開く。
「おまえはやさしい娘だ。だが、それがいずれ仇となる。そのために傷つくこともあるだろう……。おまえはもう一度、傷つかねばならないのかもしれない」
「……。私は、私が信じたせいで自分が傷つくことは、こわくない。いくら傷ついてもいいとおもう」
「私がいやなんだ」
「え?」
そう言ったあと、占部は背中を向け、大広間から出て行った。あわててそのあとを追う。そして、ドレスから着物に着替えた。
着物はドレスよりも転ぶ心配はしなくていいから、楽だ。
となりの部屋をのぞくと、占部は髪の毛をほどかれ、漆黒の着流しを身につけている。
いつもの占部の姿に、銀子はすこしだけ安堵した。
「占部。もう帰るの?」
「ああ、そうだな……」
「私、はやく帰りたい。那由多にただいまって言いたい」
こんなにもあの屋敷が恋しくなるなんて、思ってもみなかった。
広い屋敷。橘の家よりも大きいけれど、那由多の屋敷のほうがずっとずっとあたたかくて、居心地がいい気がする。
なぜだろう。住んでいるひとは那由多と占部だけなのに。
「分かった分かった。じゃあ、さっさと帰るぞ」
「うん」
廊下に出ると、思いもよらないひとが立っていた。
――コトだ。
ドレスから赤い打掛に着替え、髪の毛を結った少女が悠然と立っていた。
「占部様」
占部のなまえを呼んでいるのに銀子をじっと見つめ、睨んでいる。
「ずっと、お聞きしたかったことがありますの」
「なんだ」
「なぜ、人間なんかを守るのです? あなた様は――人間の愚かさを人一倍知っているはず」
親の仇を見るような瞳をしている。
コトは憎々しげに銀子を睨み、占部へと問うた。
「たしかに知っている。だが、銀子は私が認めた人間だ。たとえ人間が、妖怪のすみかを奪ったものだとしても、私が恨むことはない」
「……占部様は、妖怪ではないですから。でも、すみかを奪われたのはおなじなはず。それなのに、なぜ、人間を――」
コトのことばの意味。
人間を疎んでいない妖怪たちしかいないとは思ってはいなかった。
それでも、これだけ人間を恨む妖怪を見るのは、はじめてだ。だからだろうか、すこしだけ、銀子が狼狽したのは。
占部の顔をみるのがこわい。
たしかに、と、うなずかれるのが怖い。
しかし、くだらないことを聞いたように、占部は鼻で笑った。
「人間だから守っているわけじゃねぇ。ほら、行くぞ銀子」
「う、うん」
狼狽えたのは、銀子だけではなかった。コトも、意味の分からないことばを聞いたように、狼狽している。
赤い瞳が、占部を見上げているけれど、彼は気にする様子もなく、ただ銀子の手首を引いてコトの横を通り過ぎた。
彼女はもう、なにも言わなかった。しかし、銀子を妬むような瞳をしていたことは、銀子自身分かっている。
おそらく、コトは――。
外は、どこになにがあるか分からないほど暗くなっていた。
「真っ暗。これじゃあ、帰れないよ」
「札があるだろ。一枚くれ」
札をわたすと、占部は宙にほうった。
ぼう、と音を立てて札が燃え、やがて炎があたりを照らす。まるで、占部に付き従うように、その炎は忠実に占部の歩く方角を照らしていた。
「カンテラもあるが、カガネの城の人間に借りるのもしゃくだからな」
「そういうものなの……?」
「私はな」
答えになっていないような気がするけれど、今ははやく那由多の顔を見たかった。
体調はよくなっているだろうか?
最後に見たときはとても、疲れた表情をしていたから。
ここから屋敷までは、そう遠くない。
ただ、炎があるとはいえ暗いせいか、ずいぶん歩いているような気がする。
「占部」
「なんだ」
「妖怪たちのすみかを人間が奪ったっていうのは、暗闇のことでしょう?」
「そうかもな」
「でも、まえから思っていたんだけど……。妖怪たちは、暗闇に住んでいるんじゃなくて、暗闇にしか住めなくなってしまったんじゃないかって。私、そうおもった」
「そりゃまたなんでそう思うんだ」
「だって、ここの妖怪たちは、ちゃんと昼間でも起きていて、アソウギ通りも活気に満ちてる。夜にしか行動しないなんて、そんなことない」
占部はいったん、足をとめた。
冬特有の広い空を見上げている。きらめく星々。その星ひとつひとつが、命を燃やすように輝いていた。
「それに、占部も人間にすみかを奪われたって……」
「昔、龍が二匹いた」
唐突に、占部がつぶやいた。
「会うことも、話すこともなかったが、その龍は人間の世界を守っていた。だが、やがていなくなったんだ」
「いなくなった?」
「死んだのさ。人間に必要とされなくなったんだろう。人間は人間の力で強くなり、やがて龍という存在は必要ではなくなった。まあ、もっとも200年以上昔のことだがな」
「……」
「私は、鵺の森にずっといたわけではない。人間の世界にいたこともあった」
「そうなの? でも、その龍とは会ってないんでしょう?」
「ああ。その龍が生まれるまえに鵺の森に来たからな。その龍が生まれたあと、こっちに来たわけだ。だが、人間にすみかを奪われたわけじゃない。そうあるべきだったんだろうよ。人間の世界も、鵺の森もあるべきものがあり、なるべくようにしてなるものだからな」
占部の表情は、どこも悲しんでいる様子はなかった。
ただ、いつものように飄々としている。
「そういうものなのかな……」
「そういうものだ。立ち話も寒いだろ。さっさと帰るぞ」
「うん!」
屋敷につくと、那由多はほほえんで「おかえり」と言ってくれた。




