八、
カガネが、銀子の手をひく。
その力は驚くほどやさしかった。
静かな大広間。カガネと銀子以外は、誰も踊っていない。
だが敵意のある瞳が、銀子を刺している。
目の前にあるカガネの瞳。
うまく隠蔽されている、暗い色。
「あなたは、何なの?」
音楽にかき消されそうな声を拾ったカガネは、顔をどこか満足そうにほほえんだ。
「ぼくは、鵺の森の王。それ以上でも、それ以下でもないさ。占部と同じようにね」
「……」
「お前は、ぼくを鴉とつながっていると思っているんだろう?」
「!!」
おもわず、手を離しそうになる。それでもカガネはしっかりと銀子の手をつかんで離さなかった。それどころか、体をよけい添わされて、身動きさえできなくなる。怖い、とおもった。
それでも、足は動く。
ここで、動揺したらだめだ。
カガネは銀子にしか聞こえないような声で、そっと囁いた。
「それは、正解だ」
「……どうして、私にそんなことを言うの」
「お前には、嘘など無意味だ。夢見の力があるのだから。だが――。ぼくが鴉とつながっているというのは、すべて鵺の森のためをおもってのこと」
「どういうこと?」
「月虹姫の懐に入りこむためさ。あれはひどく危険な女だ。鵺の森の敵となりえる」
「もしかして、あなたは――」
カガネは満足そうにうなずくと、そっと銀子から距離をとった。
音楽はまだ流れている。
「銀子」
占部の声を聞くまで、銀子はヴェールのむこうに再びすわったカガネを見つめていた。
はっと占部の顔を見ると、どこか険しい表情をしていた。おそらく、聞こえていたのだろう。
「あまり、思い詰めるな」
「え?」
ふたたび踊り始めた妖怪たちは、何事もなかったかのような表情をしている。今までの会話は、まったく聞こえていなかったらしい。
「聞こえていたの?」
「私は耳がいいからな。だが――やはり、食えん奴だ。どこまで信用していいか分からん。まあ、いい。今のことは、まわりには漏らすな。那由多には私から告げておく」
「わ、わかった……」
鵜呑みにしてはいけないと思うけれど、すべて嘘だとも思えない。
なぜだろう。
哀しい色をした、赤い瞳をしていたからだろうか。
(やめよう。思い詰めるなって言ってくれたし、考えても今のところ、どこまでが本当かも分からないから。)
かぶりを振って、ふたたび壁のほうに向かおうとすると、誰かに手首をつかまれた。
「どうしたの、占部」
そばにいたのは占部しかいない。予想通り、手首をつかんだのは占部だった。
むすっとした表情。
いつもの顔だった。
まわりはみな、ワルツにあわせて踊っている。
その光景はまるで、水面にうかんだ花びらのようだった。
「どうしたの」
もう一度尋ねたあと、占部は手首をつかんだまま踊る妖怪たちの輪に入ってゆく。
スカートのすそを踏まないように気をつけながら、あとを追った。
「わっ」
いきなり立ち止まり、彼は銀子の手をとったまま、腰に手を触れた。ぎくりと体がこわばる。
それでも、カガネに触れられたときのように、怖いとは感じない。
占部が絶対的な味方だと分かっているからだろうか?
わからない。
「占部?」
無愛想な表情のまま、銀子をそっとエスコートした。
ゆっくりと音楽はながれる。
銀子の目が見開かれた。背の高さは関係ないようだった。それほどまで、占部は慣れていた。
今までだれかと踊ったことがないと言っていたのに。
「慣れてる」
「まぁな」
「踊ったこと、なかったんじゃないの?」
「こういう場所では踊らねぇよ。だが、訓練はしていたからな」
「……いま、踊ってる」
「いいんだよ」
なにがどういいのか分からないけれど、銀子は自然と笑みを浮かべていた。
占部の手はあたたかかった。
こころの奥の寂しさや哀しさを感じさせないほどの、手のあたたかさだった。
聞いたことのある音楽が聞こえてきた。
フレデリック・ショパンの「華麗なる大円舞曲」だ。
華やかな旋律。
きらきらと輝くような音。
「この曲、知ってる」
「そうか」
「学校で習ったんだ。華麗なる大円舞曲っていうんだよ。私、音楽がだいすきだった。おじいさまの部屋で、クラシックをたくさん聴いた。ハチャトゥリアンの仮面舞踏会、剣の舞……ヨハン・シュトラウス……ウイーンの森の物語、美しく青きドナウ……。たくさん聴かせてもらった。でも、おじいさまは二年前に亡くなってしまった。今おもうと、おじいさまだけが私を見ていてくれたのだと思う」
ピアノの、華々しい旋律。うつくしく、昼間の空のような、明るい音色。
「おじいさまが亡くなってから、私はずっとひとりぼっちだった。ううん、ひとりぼっちということに気づいたのは、鵺の森にきてから。ひとりぼっちって、とても哀しくて、さみしい」
「私はそうは思わない」
「どうして?」
「ひとりは楽だろう。誰かをうしなうこともない。誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることもない」
「そうだね。占部のいうとおり。でも、私はひとりぼっちはもう、いやだ。たとえ傷ついても、私は……」
「おまえは強い娘だな」
占部の緋色の瞳が、すっと細められる。
眩しいもの、うつくしいものを見るような瞳を目の当たりにして、銀子の胸がかすかに痛んだ。
「だが、鵺の森ではそれを塗りつぶす輩がいる。いくら温和な妖怪たちといえど、姑息な手段をつかって、おまえを危機にさらすかもしれない。この城の妖怪どもは信用するな」
「どうして……」
信用するな、と言われたことに対してではない。
銀子がいいたいのは、どうしてそこまでして、心配してくれるのだろうということだ。
そう呟くと、占部はかすかに笑った。
「なんでだろうな。私は、おまえをなぜか放っておけない」
「……」
占部の笑った顔は、あまり見たことがない。
だから、じっと見つめてしまった。すぐに笑みは消えたけれど、銀子の胸にたしかに刻まれた。




