一、
鵺の森に受け入れられたということは、人間ではなくなったということだ、と占部は言った。
布団のなかで、月を見上げる。占部も、布団にもぐりこんで眠ってしまった。
銀色の月が浮かんでいる。
鼻のあたりまで毛布をあげて、目だけ出す。
銀子の瞳が、一度閉じた。すぐに開いて、ふたたび月を見上げる。
この月は、どこまでつづいているのだろう。
人間の世界とおなじ月なのだろうか?
(人間の、世界……。)
そうだ。
もう、人間ではない。
どこが人間ではなくなったのかと問われれば、はっきり言ってわからない。なにも変わっていないような気がする。
(私は、人間の世界になにかを置きわすれてしまった気がする。)
(なんなのかは分からないけど、それでも――まるで、こころのどこかが欠けてしまったみたい。)
そっと呼吸をする。
静かだった。
占部の呼吸音さえしない。静かすぎて、きっと聞こえないのだ。
「これが、人間じゃなくなるってこと?」
囁くようにこぼす。
きら、と、星がきらめいた。
ギンイロの尾のようだった。
次の日の朝食も、占部は食べなかった。
「どうして食べないの」
「私はいいんだよ」
そう言って、いれたばかりの熱いお茶を飲んだ。
外は、白い切片がきらきらと輝いている。雪が降っているのだ。つないである馬は大丈夫だろうか。寒い思いをしていないだろうか。
「馬、大丈夫かなあ」
「あの馬は、寒さにも暑さにも強い。……便利なもんだ」
「ふうん……。でも、冬も夏も感じないって言うことでしょう。やっぱり、さみしいね」
水だけで生きていける体は、便利かもしれないけれど、さみしい気がする。
占部は興味なさそうに「ふうん」と鼻を鳴らした。
「銀子」
「なに?」
食事を終えて、星の城にむかう準備をしていると、ふいに占部に呼び止められた。
彼は昨日とおなじ、緋色の羽織をはおっている。
「いいんだな」
「?」
すっと瞳をほそめ、彼は銀子を険しい表情で見据えた。
「本当に、鵺の森に住むんだな? 人間の世界にもう、未練はないのか」
「……分かんない。未練がないかって言われれば、あるとおもう。でも、もう人間のいる場所には戻れない……」
そっとうつむく。
ゆるいカーヴをえがく髪の毛が、肩をなでた。
人間の世界は、便利だった。車があるし、テレビもラジオも、パソコンもある。けど、それは銀子のこころを慰めてはくれなかった。逆に、どんどんとむなしくしてゆくだけだ。
けど、この森は――この、鵺の森とよばれる場所は、どれも銀子のこころを癒やしてくれた。
不便といえば不便だ。命もねらわれている。
それでも、ここでは銀子は「生きている」。生きているのだと、実感できている。なぜかは分からない。けれど、たしかに銀子は今、幸福だった。
「鵺の森に受け入れられたということは、人間ではなくなるということだ」
夜に言ったことばを、もう一度占部は呟いた。
うん、とうなずく。
わかってる、とは言えない。どういうことなのか、いまだに分からないからだ。
「占部。なんだろう。こころの一部が欠けてしまったみたい。人間の世界になにかを置き忘れてしまったような気がする」
「……そうか」
「これが、人間じゃなくなるってこと?」
占部は相づちをうっただけで、なにも言わない。
おそらく、自分で考えろということだろう、と思ったけれど、占部のくちびるが開いた。
「つぐみも、鵺の森に認められた存在だった……。それでも、あいつは自死をえらんだ。殺されたとおなじだ。鵺の森に」
その瞳は、暗い色をしていた。まるで、鵺の森を憎むような色を。
「おまえは、つぐみのようにはならないでくれ。那由多もそう願っている」
「……うん……」
答えはなかった。かわりに、占部のこころの淵を見たような気がした。
つぐみの死を悼んでいる。今も、きっと、これからもずっと。まるで、自分のせいで死んだと言うように。
「じゃあ、行くぞ」
「うん」
宿屋に働いている女性に礼を言って、ふたたび馬に乗り込んだ。
白い、ちいさな雪がほおにふれる。ちりっとした痛みを感じた。
つめたい、と思う。風がきびしく吹く。手がかじかみ、感覚がなくなってくる。足先もとても冷たい。
肩がふるえはじめると、占部は馬を操作して、走る速度を落としてくれた。
「じき、つく。それまで我慢できるか」
「できる。大丈夫だよ」
「そうか」
林をぬける。
そこまで、泊まった宿屋以外の集落はどこにもなかった。
やがて占部は崖のさきへ馬を移動させると、下にひろがる銀世界を銀子にみせた。
その白く輝く、真珠のなかのような世界に一等光り輝くのは、雪の中でも分かる、藍色の城壁だった。
藍の色の壁、そして白い、星の色の瓦屋根が銀子の瞳にうつった。
「あそこが星の城と、その城下町だ」
「すごい、きれいだね!」
「まあな」
まるで、夜空のなかにいるようだ。
手綱をひいて、馬はゆるやかな坂をくだりはじめた。
「……ゆっくり、考えればいい」
「え?」
「鵺の森は、まだ待ってくれる」
「待ってくれる……?」
「おまえは、やさしい娘だ。……鵺の森にいては、それを邪魔してしまうかもしれない」
ぽつりと呟いたあと、手綱を握る手に力を入れた。
やさしい娘だと、言ってくれる。占部が――。やさしい、龍が。銀子のこころをあたためてくれることばをくれた。
(でも、邪魔してしまうって、どういうことだろう?)
「どういうこと?」
「ここでは、優しさだけだと傷つくということだ」
そっと呟き、馬の手綱を引いて坂を一気に駆け下りた。




