九、
占部はそのまま、ふたたび眠ってしまった。
よほど疲れていたのだろうか。占部の思うところは、銀子には分からない。
ただ、もう彼はうなされることはなかった。
食事が運ばれてきたけれど、占部は食べることもせずにただ眠っている。
ただ、夕食はひとり分しかなかった。食べないということを伝えていたのだろうか。
「……いただきます」
ぽつりと呟いても、かえってくることばはない。
ひとりきりの食事は久しぶりだ。
あじのフライに、キャベツを刻んだサラダ、味噌汁に白米。おいしかったけども、やはりひとりきりの食事は味気なかった。
那由多は、けっしてひとりで食事をとることはない。銀子と占部をかならず食事の時には呼んでくれた。
それは、幸福なことだったのだ。
「占部、私、お風呂入ってくるね」
眠る占部に呟いても、やはり返事はない。ただ、静かな寝息をたてているだけだ。備え付けられている浴衣と羽織をもって、女湯へむかう。紅色ののれんに「ゆ」と書いてあるところは、人間の世界とまったくおなじだ。
「だれもいない……」
そっと呟いたつもりだったが、風呂場のなかはとても響いた。なかは誰もおらず、貸し切りの状態だ。
ひろい檜の湯船にはいり、そっと息をつく。
「占部、だいじょうぶかなあ」
なかはとても広い。当たり前だけど、那由多の屋敷のお風呂より、何倍も。
宿屋の温泉なのに、だれもいないからだろうか。すこし、心細い。おもわず湯船の角によって、薄茶色のすべすべとした壁を無意味にふれる。
占部の様子がどこかおかしかった。寝ぼけていたのだろうか。だから、あんなに弱々しい姿を見せてくれたのだろうか?
考えても、彼の思いはまったく分からない。
銀子と占部はちがう。
占部のように、何千年も生きていない。その苦しみも、つらさもわからない。
孤独なのだろう。
ひとりきりで生きてゆくということは。
孤独はかなしい。つらい。それでも、そうしなければならなかった哀しみも、銀子には到底知り得ない。
「占部はかなしいのかな」
辛くて、苦しいゆめを見たと言っていた。どんな夢だったのだろう。彼のことばに、引き込まれる。まるで、ギンイロの海のなかにしずむようだ。
ギンイロの、銀子の海には、たしかにさんごが育っている。
なにもない、うつくしい海。
それが、徐々にさまざまな色に染められてゆく。
彼のことばは、真実だ。
そして、銀子のこころを軽く叩く。
いつもの掴めさせない瞳の色ではなくて、やさしい、とてもやさしい色をした瞳が、銀子の虹彩に残っていた。
とてもやさしい龍の姿が、銀子の脳裏にうかんだ。
銀子はそっと湯船から出て、浴衣を身につけた。
そして裸足のまま、あてがわれた部屋へ走る。タオルでぬぐっただけの髪の毛は、湿っていた。
「占部」
襖をそっと開けると、彼は何事もなかったように座布団の上にあぐらをかいていた。
あついお茶をすすって、背中を丸めている。
「なんだ、銀子。風呂にいっていたのか」
「うん。そうだよ」
「そうか。銀子、そっちにすわれ」
「? うん」
占部がいる反対がわに座ると、占部は湯飲みにお茶をいれてくれた。
それを両手でうけとると、そっと息を吹きかける。
「なに?」
「ゆめをみたと言ったな」
どこか、痛んでいるようなトーン。
銀子はぎくりとして、くちびるを閉じた。
「おまえには、話さなくてはいけない」
「なんのこと?」
占部の瞳は、銀子をしっかりと見据えている。
あの哀しいほどやさしい瞳はどこにもない。真剣な表情だった。
「おまえ、ここにきてから爪を切ったか」
「……切ってない」
「髪は伸びたか」
「伸びてない……」
愕然とする。
ここにきてから、爪も髪の毛も伸びていなかった。それに気づくこともなかった。
おもわず自分の爪を見下ろす。透明で、すこしだけピンクかかった色。それは、伸びることがなかった。
「どうして……」
「鵺の森が、おまえを受け入れてしまったからだ」
「うけいれた……?」
「鵺の森は生きている。生きて、ヒトの目から鵺の森を守っていたんだ」
そういえば、ここはどこなのだろう。
銀子が住んでいた場所とは似ているようで、まったくちがう。東京でも、埼玉でも、千葉でもない。北海道でも、沖縄でもない。
占部が言っていることは、そういうことなのだ。
「もし、鵺の森が人間の目に見つかったら、大変なことになる。人間は自分とちがうものを恐れ、嫌う。ここの妖怪たちをみな、皆殺しにするだろう。ここの妖怪たちは温厚だ。戦うことをよしとしない。鵺の森は伊予姫とつながり、そして私とつながっている。そして、選ぶんだ。人間が、ここで生きていけるかどうかを。あるいは――鵺の森が、おまえを殺すか否かを」
「殺す……」
「だが、鵺の森はおまえを受け入れた。おまえは、ここで生きていけるだろう。鴉に殺されなければの話しだがな」
「もう、人間の世界には戻れないって言うことをいっているの?」
占部はいったんくちびるを閉じてから、そっとうなずいた。
「一生な。なぜなら、人間の一生の年月と、ここに住むものの一生の年月は違うからだ」
「だから、爪も髪の毛も伸びない?」
「そうだ。鵺の森にすむものたちは、みな長寿だ。何百年も生きる。あるいは、千年も生きるものもいる」
「そう、なんだ……」
うつむき、手をにぎりしめる。
それでも鵺の森が受け入れてことを、ほんのすこしだけ、誇った。
占部の夢にふれてしまったから。
だからでしょう。
鵺の森に認めてもらえたのは。




