八、
占部がとってくれた宿屋は簡素だった。それでもこの集落の宿屋はみな、外見は簡素だ。ときおり、女の人が扉の前で立っている。
なぜ立っているのか占部に聞いたけれど、彼は興味なさそうに「さあな」と視線を外しただけだった。
「いらっしゃいませ」
愛嬌のある顔だちをしている女の人が頭を下げた。矢絣の着物を着ていて、ここの宿屋の人なのだと分かる。
お部屋にご案内いたしますと言った、前を歩く彼女のあとについていく間、占部は眠たそうにあくびをした。
「眠いの?」
「私はいつでも眠いんだよ」
「ふうん……」
きっと、眠るのが好きなのだろうなとそのときは思ったけれど、本当は違ったのだ。かなしい理由がそこにはあったことに、そのときは気づかなかった。
部屋につくと、占部はさっそく座布団を枕にして横になってしまう。
机のうえに置かれていたのは、湯飲みと茶葉だ。
「占部、お茶いる?」
一応聞いてみるけれど、占部はもう眠っているようだった。ひとりでお茶を飲んでもさみしいので、茶葉には手をつけないことにする。
障子をあけた先は窓になっていて、外の様子が見てとれた。
空にあるのは満月だ。白く、雪のような月が空にさみしげにぽつんと浮かんでいる。
「さみしいね」
誰かにいうでもなく、銀子は呟いた。
(ひとりは、さみしいよね。)
行儀が悪いとおもうが、机の上に肘をあてて、ぼんやりと月を見上げる。
「……」
どれくらい、ぼうっとしていたのだろう。うしろから、かすかな声が聞こえてきた。銀子のほかに占部以外いない。そっとうしろを振りかえる。
占部がいるだけだ。
「占部……?」
「――……」
すこしだけ、苦しげな声。
座布団を枕にした占部は仰向けになって、お腹に手を握りしめていた。おもわず銀子は彼のそばに駆け寄る。
「占部!」
前髪が湿るほどに、額から汗がにじんでいた。呼吸が荒い。細かく呼吸をして、とても辛そうだ。
銀子は懐に入れておいたハンカチで、額の汗をぬぐう。
「う……っ」
苦しげな声。
どうしたのだろう。こんなに苦しそうな占部ははじめて見る。だからだろうか、とても不安な思いになった。ここには知っているかぎり、助けをよぶ電話もない。那由多を呼ぼうにも、ひとりで馬も乗れないし、かなりの時間がかかる。
「占部、占部!」
叫んでも、占部はかたく瞼をとじて目をさまさない。
だれもいない。
助けてくれる人は、ここには誰もいない。
銀子の手がふるえる。
(このまま、占部が眼を覚まさなかったらどうしよう。死んでしまったらどうしよう。)
いやだ。
そんなの、ぜったいにだめだ。
たすけてくれないのは自分が弱いせいだということを、今はじめて知る。
いや――ちがう。
誰かにいつも助けてもらえるということは、間違っていたのだ。
いつだって、占部や那由多がたすけてくれていた。
それは、銀子が弱かったからだ。
守られなければいけない存在だからだ。
「それはきっとちがう……。占部。あなたは、それをずっと背負ってたんだね」
銀子の手のひらが、そっと占部のほおにふれた。
とても熱い。まるで、熱が出ているようだ。
「……」
占部のまぶたが動く。
おもわず息をのんで、手を引いた。占部の眉はくるしそうに寄っている。銀子は引いた手をふたたび占部の額にふれた。
「手当て」ということばを思い出す。
占部の額をそっと撫でる。できるだけ、思いを込めて。札に印を描くときのように、ゆっくりと。
汗が手のひらに触れるけれど、構わない。ゆっくりと、大切なものを撫でるようにふれる。
母が、こうしてくれたことがある。
やさしいと思っていた、過去の母が。
やさしく、大丈夫だよという思いを込めてふれると、痛みはひくのだということを、母から教えてもらっていた。
けど、彼女のほほえみはもう、どこにもない。
偽りだったのかもしれない。
ほつ、と、銀子の瞳から涙がこぼれた。
それは占部のほおに落ちた。
「……銀子」
かすかな声。
占部が目を覚ましたのだ。
緋色の瞳。まっすぐ銀子を見つめている。
「また、泣いているのか。銀子」
すこし、かさついた声。
白い指が、そっと銀子の涙をぬぐった。
びくりと銀子の体がかたまる。畳の上に体をよこたえた占部は、そっと笑った。
やさしいほほえみだった。
今まで、みたことがないくらいの。
「泣いてない」
「泣いてるだろ。おまえ、泣き虫だったんだなあ」
「そんなこと、ない!」
占部の前で泣いたのは、これで二回目だ。だから、泣き虫だと言われても何も言えない。
手で涙をぬぐおうとしたけれど、占部の手で手首を握られてしまった。
「おまえは、不思議な娘だな」
どこか寝ぼけたような声で呟く。
銀子は首をかたむけて、手首を掴まれたままそのことばの先を待った。
「おまえには、力がある」
「……知ってるよ。言霊と夢見の力でしょう」
「ちがう。それもあるが、おまえのやさしい心が、力を呼ぶんだ」
「え……?」
「ゆめを見ていた。辛く、苦しい夢だ。だが、おまえが私に触れたと分かったら、苦しくなくなった。辛くもなかった」




