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鵺の森  作者: イヲ
第五章・アイネ・クライネ・ナハトムジーク
32/129

八、

 占部がとってくれた宿屋は簡素だった。それでもこの集落の宿屋はみな、外見は簡素だ。ときおり、女の人が扉の前で立っている。

 なぜ立っているのか占部に聞いたけれど、彼は興味なさそうに「さあな」と視線を外しただけだった。


「いらっしゃいませ」


 愛嬌のある顔だちをしている女の人が頭を下げた。矢絣の着物を着ていて、ここの宿屋の人なのだと分かる。

 お部屋にご案内いたしますと言った、前を歩く彼女のあとについていく間、占部は眠たそうにあくびをした。


「眠いの?」

「私はいつでも眠いんだよ」

「ふうん……」


 きっと、眠るのが好きなのだろうなとそのときは思ったけれど、本当は違ったのだ。かなしい理由がそこにはあったことに、そのときは気づかなかった。



 部屋につくと、占部はさっそく座布団を枕にして横になってしまう。

 机のうえに置かれていたのは、湯飲みと茶葉だ。


「占部、お茶いる?」


 一応聞いてみるけれど、占部はもう眠っているようだった。ひとりでお茶を飲んでもさみしいので、茶葉には手をつけないことにする。

 障子をあけた先は窓になっていて、外の様子が見てとれた。

 空にあるのは満月だ。白く、雪のような月が空にさみしげにぽつんと浮かんでいる。


「さみしいね」


 誰かにいうでもなく、銀子は呟いた。


(ひとりは、さみしいよね。)


 行儀が悪いとおもうが、机の上に肘をあてて、ぼんやりと月を見上げる。


「……」


 どれくらい、ぼうっとしていたのだろう。うしろから、かすかな声が聞こえてきた。銀子のほかに占部以外いない。そっとうしろを振りかえる。

 占部がいるだけだ。


「占部……?」

「――……」


 すこしだけ、苦しげな声。

 座布団を枕にした占部は仰向けになって、お腹に手を握りしめていた。おもわず銀子は彼のそばに駆け寄る。


「占部!」


 前髪が湿るほどに、額から汗がにじんでいた。呼吸が荒い。細かく呼吸をして、とても辛そうだ。

 銀子は懐に入れておいたハンカチで、額の汗をぬぐう。


「う……っ」


 苦しげな声。

 どうしたのだろう。こんなに苦しそうな占部ははじめて見る。だからだろうか、とても不安な思いになった。ここには知っているかぎり、助けをよぶ電話もない。那由多を呼ぼうにも、ひとりで馬も乗れないし、かなりの時間がかかる。


「占部、占部!」


 叫んでも、占部はかたく瞼をとじて目をさまさない。

 だれもいない。

 助けてくれる人は、ここには誰もいない。


 銀子の手がふるえる。


(このまま、占部が眼を覚まさなかったらどうしよう。死んでしまったらどうしよう。)


 いやだ。

 そんなの、ぜったいにだめだ。


 たすけてくれないのは自分が弱いせいだということを、今はじめて知る。

 いや――ちがう。

 誰かにいつも助けてもらえるということは、間違っていたのだ。

 いつだって、占部や那由多がたすけてくれていた。

 それは、銀子が弱かったからだ。

 守られなければいけない存在だからだ。


「それはきっとちがう……。占部。あなたは、それをずっと背負ってたんだね」


 銀子の手のひらが、そっと占部のほおにふれた。

 とても熱い。まるで、熱が出ているようだ。


「……」


 占部のまぶたが動く。

 おもわず息をのんで、手を引いた。占部の眉はくるしそうに寄っている。銀子は引いた手をふたたび占部の額にふれた。

 「手当て」ということばを思い出す。


 占部の額をそっと撫でる。できるだけ、思いを込めて。札に印を描くときのように、ゆっくりと。

 汗が手のひらに触れるけれど、構わない。ゆっくりと、大切なものを撫でるようにふれる。


 母が、こうしてくれたことがある。

 やさしいと思っていた、過去の母が。

 やさしく、大丈夫だよという思いを込めてふれると、痛みはひくのだということを、母から教えてもらっていた。

 けど、彼女のほほえみはもう、どこにもない。

 偽りだったのかもしれない。


 ほつ、と、銀子の瞳から涙がこぼれた。

 それは占部のほおに落ちた。


「……銀子」


 かすかな声。

 占部が目を覚ましたのだ。

 緋色の瞳。まっすぐ銀子を見つめている。


「また、泣いているのか。銀子」


 すこし、かさついた声。

 白い指が、そっと銀子の涙をぬぐった。

 びくりと銀子の体がかたまる。畳の上に体をよこたえた占部は、そっと笑った。

 やさしいほほえみだった。

 今まで、みたことがないくらいの。


「泣いてない」

「泣いてるだろ。おまえ、泣き虫だったんだなあ」

「そんなこと、ない!」


 占部の前で泣いたのは、これで二回目だ。だから、泣き虫だと言われても何も言えない。

 手で涙をぬぐおうとしたけれど、占部の手で手首を握られてしまった。


「おまえは、不思議な(むすめ)だな」


 どこか寝ぼけたような声で呟く。

 銀子は首をかたむけて、手首を掴まれたままそのことばの先を待った。


「おまえには、力がある」

「……知ってるよ。言霊と夢見の力でしょう」

「ちがう。それもあるが、おまえのやさしい心が、力を呼ぶんだ」

「え……?」

「ゆめを見ていた。辛く、苦しい夢だ。だが、おまえが私に触れたと分かったら、苦しくなくなった。辛くもなかった」

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