四、
「え?」
「私には見えない。雪の精霊も、つぐみの思いの残滓もな。その見る力を大事にしろ。おまえだけに見える、大事なものだ」
彼はどこか寂しそうに囁いた。
見えない。占部には。つぐみも、この雪の精霊たちも。なぜだろう。なぜ、龍である彼には見えないのだろう。
そして、背筋が凍るような思いになる。
見えたのだ。
人間の世界で、妖怪たちが。
銀子だけに見える、妖怪たち。そのせいで、銀子は捨てられた。
傷口をえぐられるような思いになる。
それでも、占部は「大事にしろ」と言ってくれた。
占部には見えない、その目の力を。
それがとてもうれしい。
銀子はうなずいて、そのうつくしい雪の精霊たちを見上げた。
透明で、きれいな羽衣。
尾を引くように楽しげに空を舞うすがた。
霧雨が若い芽をうるおすように、彼女のこころで、なにかが芽吹く。
家族に捨てられてから、生きているという実感がもてなかった。
生きていることとは、一体どういうことなのか。銀子は橘の家にとって、どうでもいい存在だったのだ。生きているということを拒絶され、疎まれた。それでも、那由多と占部は違った。銀子のそのものを受け入れてくれた。そのことが、こんなにも嬉しいとは思わなかったのだ。
「うん。大事にする」
「それでいい。じゃ、そろそろ帰るぞ」
「うん」
那由多の屋敷に帰るまで、占部はなにも話すことはなかった。ただ、銀子の前をあるく姿がすこしだけ、辛そうだった。彼がほんとうに辛そうだったのかは分からないが、銀子にはそう思えた。
雪はもう、どこにもなかった。
「ただいま、那由多」
「おかえり」
那由多はいつものように手紙を書いていて、そっと顔をあげる。
彼はとても深刻そうな表情をして、「月虹姫と会ったみたいだね」とつぶやいた。
「うん……。なんて言うんだろう。すごく、冷たそうな子だった……」
「冷たそうな子、か。そうだね。彼女は、氷のような少女だ」
筆を置き、うしろに立っている占部をみあげる。つられて銀子も彼を見上げるが、占部はぶっきらぼうに「なんだよ」と顔をゆがめた。
「いや。どうかしたのかと思ってね……」
「ああ? おまえ、どこまで見てやがったんだ! プライバシーの侵害だぞ!」
「わたしだって、見たくて見たわけじゃない。いたずら好きの式神に文句を言ってくれ。ことこまかにあれは喋ってくれたからね」
「な、ななな何だって!? おい、奴を今すぐ呼べ! 踏んづけてやる!」
どうやら、先刻の言い合いを那由多の式神が盗み聞きしたらしい。
銀子はとくべつ困ることはなかったが、占部はちがうようだ。
それにしても、那由多の式神は、藤以外見たことがない。一体、何人いるのだろう。
「踏んづけてもいいが、すぐにただの紙切れになって逃げるだろう。いつもそうだったじゃないか。きみのいらいらの原因のひとつだ」
「ああ? じゃあ、口を縫ってやる!」
「それは困る。しゃべれなかったら、仕事ができない」
「知るかよ!」
まるで、子どもの口げんかだ。
ふっと、銀子が吹き出す。占部が彼女をにらんだが、怖くはなかった。月虹姫のほうが、よっぽど怖かった。
「銀子。きみは、この世界でも希有だ。けれど、だからといってなにも臆することはないよ。生きていてくれれば、それでいい。力を得ようとか、そんなことをきみは考えていないだろう?」
「うん」
「それならば、心配はいらないね。鴉以外の妖怪たちはみな、温厚だ。戦いを好むものはいない」
まるで今のやりとりがなかったかのように、やさしく笑う。
それでも、銀子は――彼のほほえみの裏に、なにかがあるような気がしてならない。
那由多の考えていることは到底、銀子には理解が及ばないことだ。占部よりも、彼は底知れない何かがあるような思いになる。
いや――疑うのは哀しいことだ。
銀子はかぶりを振って、うん、とうなずいた。
「あ」
廊下をあるいていると、暁暗が暗い廊下の先から歩いてきた。
ふたつの目が、暗がりで光っている。
「暁暗?」
「ああ、銀子。元気かい」
「うん。元気だよ。暁暗、これからアソウギ通りにいくの?」
「いいや。ねぐらに帰るところだよ。アソウギ通りのあたりにあるんだ。そういえば銀子。月虹姫に会ったんだって? よく無事で帰ってこれたねえ」
「占部がいたから。それに、すぐにいなくなっちゃったよ」
暁暗はなにかを考えるように、まるまるした首をそっとおろした。
そして、ふいにくるりとその場をまわり、人間のかたちになった。灰色の着流しに、肩に真っ赤な羽織りをはおっている。
すずしい顔をしている彼は、細いゆびを顎にあてて、「ううん」とうなった。
「占部どのね……。俺はちょっと苦手なんだよねえ」
「占部が?」
「そう。だって、何を考えているか分からないんだもの。そりゃあ、鵺の森を守ってくれていることには感謝しているけどさ」
「占部は、やさしい龍だよ。私のこと、守ってくれたもの」
「そりゃ、ただの気まぐれかもしれないよ。まあ、俺が言うことでもないけどね。占部どののことは占部どの自身しか知らないから」
「……そうかもしれないけど」
それは、すこしかなしい。
自分のことを、誰かにしってほしい、そう言うこともあるのではないだろうか。
暁暗は飄々とした顔で、銀子の頭に手をあてた。
「嬢ちゃんと占部どのは似ているのかもしれないねえ」
そう言い、暁暗は人間の姿のまま廊下を歩いていった。




