三、
背筋がこおる。
彼女は、ふらふらとあてどなく歩いているだけだ。しかし、銀子の背は凍るように冷たくなった。
さらさらとした髪。
合間に見える、白い透きとおるような肌。
そっと占部を見上げると、ひどく険しい表情をしていた。
今まで見たことがないくらい、緊張していることが分かる。
月虹姫はお供もつけずに、ただ散歩をするように歩いているだけだ。
しかし、隙がないと思わせるのはなぜだろうか。
銀子に隙をつくなどという芸当はできない。どこから攻めても彼女には通じないという空気がある。
「そこにいるのはだぁれ?」
鈴のような声。
間延びした声でも、氷のような冷たさがあった。
占部は舌打ちをして、掴んでいた銀子の手をはなす。
「かくれんぼ? ねえ、かくれていないで、わたしと遊ぼうよ」
幼い、舌足らずな声。
枯れた葉を踏みつけながら、彼女は遊ぶように歩いている。徐々に、そして確実にこちらへ向かってきていた、が、突然ぴたりとその足が止まった。
「……あれ? ああ、もうそんな時間?」
彼女はそらに向かってひとり呟いている。だれと話しをしているのかは分からない。
しかし、まだ占部の緊張はつづいている。
ふいに、ふわ、と漂ったやわらかな香りに気づく。
「……?」
「銀子」
かすかな声。
占部の苦渋に満ちた声が上からきこえる。
顔をあげると、彼は銀子のうしろを睨んでいた。はっとその後ろをふりかえる。そこには、亡霊のように男性が立っていた。
「お前」
耳朶にじかに触れるような、声。
ぞくっと、背筋がふるえる。
男性は、黄金色の明るい髪の毛をして、灰鼠の着流しを着ていた。足は素足だ。草履もはいていない。
緑色の目。那由多とその色はよく似ている。
「――言霊と夢見の力をもつ人間というのはお前だな」
「……」
「葛籠」
占部の、鋭い声。
葛籠、というのがこの男性の名前らしい。
理知的な顔をしている。それでも、きっと彼は鴉なのだろう。声色に、敵意がにじんでいる。
「テメェもくだらない願いがあるんだったな」
「……貴様に言われる筋合いはない」
「ふん。どうとでも言え。で、月虹姫の玩具が何の用だ。テメェも、銀子を狙っているのか」
「姫様は力をご所望だ。故、その人間の命をもらい受ける」
エメラルド・グリーンの瞳が、痛々しげに細まる。
まるで、望まないことのように。
「あなたは……」
葛籠の視線が銀子を刺す。
きれいな目をしていた。湖のような瞳だ。
「あなたは、何をねがうの? 月虹姫は何をかなえようとしているの」
「お前に言うべきことではない」
「あなたは、命を奪うことを望んでいない。それなのに私の命や、ほかの妖怪たちの命を奪うの?」
「俺の願いのためだ。やむを得ない」
「あなたの願いのために……? 勝手すぎるよ!」
自分のねがいのためだけに、命を奪う。そんな勝手なことは許されない。
理性的な顔をしているのに、この人はなぜそんなことをおもうのだろう。
それでも葛籠はまるで愚かなものを見るように、銀子を見下ろした。
たしかに、銀子は彼のことを何も知らない。
どんな生き方をしているのか、これまでどんな思いで生きてきたのかも、なにを望んでいるのかも。
「お前に何が分かる。ただの人間が、俺の何が分かるというのだ」
「なにも分からない。でも、命はその人のいちばん大事なものだよ。それを奪って、本当にいいの?」
「……。すべては俺の願いのため。姫様はそれを叶えてくださる。だから、俺は殺さねばならない。血にまみれてもな」
そう言った葛籠は、どこかかなしそうだった。
やはり、望んではいないのだろう。妖怪たちを殺し続けることを。
だれだって、きっと好きで殺すことはしない。闇に住むことを強要されてしまった、やさしい妖怪たちの命を、だれが好きこのんで殺すことができよう。
「おい葛籠。月虹姫はどうした。いつの間にかいなくなったが、テメェのお守りは飽き飽きしたんじゃねぇか」
「……ふん。今日は帰る。しかし、次に会ったときは銀子。お前の命、もらい受ける。せいぜい、余生を楽しむことだ」
黄金色の髪の毛がふっとゆれる。
彼は風にとけるように、姿を消した。あとには枯れ葉が数枚、風にのってゆれている。
銀子はそっと息をつくと、占部を見上げた。彼はもう、緊迫感のある表情はしていない。ただ、葛籠がきえた場所を睨んでいるだけだ。
「くだらねぇな。願いを人に託すこと自体が愚かだ」
「……うん……」
「いいか、銀子。お前は力をつけないといけない。言霊の力もその札の力、両方な」
「わかったよ」
葛籠の、かなしい目。
自分の願いをひとに託すまで、なにをそんなに望んでいるのだろう。
「おい、銀子。札を一枚よこせ」
「え? うん」
どこかいらいらした様子の占部におとなしく札をわたすと、彼は札を風に乗せるように、ふっと手を離した。
札が燃え上がり、そして炎が姿をあらわす。
その炎はやがて何かを形作るように、ゆるやかに動き始めた。
「あっ」
おもわず銀子が叫んだのは、その炎が馬の形になったからだ。だが、その馬の頭には一角獣のように、角がはえていた。
「札をうまく使えれば、式神のまがいものを作り出すことも出来る。まあ、ただの足止めにしか使えんがな」
「……。私にもできるの?」
「訓練すればできる。おまえを狙うものが多すぎるからな。独り立ちできるのも、まだまだ先のようだ」
占部はおのれの髪をかきあげて、面倒くさそうにため息を吐きだした。
それでも、彼はやさしい龍だ。
銀子を見捨てはしないだろう。
たとえ、何千年の孤独に耐え続けていても。
「どれだけおまえが炎を操れるか、やってみろ」
「う、うん……」
銀子は帯から一枚札をとりだし、手からはなす。しかしそれは炎が燃え上がっただけで、なにもおこらなかった。形作ることもなく、なにかを傷つけることもない。
「駄目か。カガネの城に行った帰りに襲われたときは、うまく操っていたのになあ。あのときはなんで炎を操れたんだ」
「分からないよ。だって、無我夢中だったから」
「やっぱり人間ってのはよく分からねぇな」
占部は諦めたのか、そらに広がる山を見上げた。
つられて見上げて、そのうっすらと山をおおう白い雪を見つめる。山を見に来たのに、ばたばたとしてしまっていた。
「すごい、人間の世界とぜんぜんちがう!」
そう思うのは、流れ星の緒のようなものが引いているからだ。
山のあたりが、きらきらと輝いている。まるで、精霊が遊んでいるように。いつか行った、教会のステンドグラスにこぼれる、光のように。
「きれいだね。すごくきれい。雪の妖精がいるみたい」
「……やっぱり、おまえには見えるんだな」
すっかり先刻の恐ろしい思いを忘れてしまった銀子に、そっと占部はつぶやいた。




