※二、
風が強く吹いた。まるで、銀子の声に呼応するように。
振袖の袂をつかんで、彼女は目をふせた。
かなしい龍。
かなしい少女。
ふたりは、似ている。
銀子はふりきるように、自分に言い聞かせるように、呟いた。
「こころのなかに何もないひとなんて、いない。私のなかにさんごが咲いたように、占部のなかにも、なにかがあるはず」
「……何もなくていい。おまえは、何千年もいきたことがあるか。神話の時代から、私はずっと生きてきた。孤独だった。ずっと、私は鵺の森を守るだけだった」
彼の瞳は暗く、海の底のように黒ずんでいた。
それでも、なにかを求めているようにも見える。ゆるぎないなにかを。
「占部……」
「私のことはどうでもいい」
きっぱりと、彼は言った。
投げやりに。瞳はまだ、暗い色をもったままだった。
守るためだけに生きている。それはきっと、つらい。銀子には想像でしか分からないが、きっと、とても辛いはずだ。それは今も続いている。
「どうでもいいことなんて、ない!」
「銀子」
「占部は、やさしい龍だよ。私のことを、義務だとしても守ってくれた。うれしかった。すごく、うれしかったんだよ」
視界がぼやける。
銀子の瞳から、すっと涙がこぼれた。
やわらかな温度の涙。
それを乱暴にぬぐって、くちびるを噛んだ。
「……おまえがなぜ泣くのか分からない」
まるで惑うように彼は呟く。
雪はいつのまにかやみ、青い空がしずかに顔を出していた。それでも、風は冷たい。
「かなしいから」
占部のこころのなかを、すこしだけ見えた。
まるで深海のような、光の届かない場所だった。
こころを見失い、諦め、そしてそれでもどこかで求めている。
解放されることを、彼は望んでいるのかもしれない。
「……悪かったよ。私が悪かった。子どものおまえに、言うべきことじゃなかった」
「子どもだとか、関係ない!」
「おまえはやっぱりお人好しだなぁ。人のことより、自分の心配をしたらどうだ。私がおまえを鴉どもから守るにも、限界がある」
「わかってるよ」
いつまでも守られてばかりではいけないということは分かっている。
それでも、やはり――怖い。
戦うことよりも、自分以外のものを傷つけることが。
ひとを傷つけると、それが自分に返ってくるということを知っているからだ。
「だが、ひとつ気になることがある」
先刻のはなしはもうしまいだと言うように、彼は声色をかえた。
暗い色はなりをひそめて、海の底にしずんでしまった。
銀子はそれを追いもとめることはなく、占部のことばに首をかたむける。
「おまえ、つぐみとおなじ力を持っていると言っていたな」
「……うん」
「はっきり言って、私はつぐみの力をあまり見たことがなかった。おまえと同じように、力をつかうことはあまり好きではなかったようだからな。だから私がおまえに指南することは、限界がある」
「そうなんだ……」
「それにおまえに札の使い方を教えても、炎が不安定なままだ。一応これからも指南はしてやるが、おまえが持っている言霊と夢見の力も同時に培わないとだめだな」
「言霊と夢見の力って、どういうことなの?」
とっくに乾いてしまった涙のあとを手の甲で無意味にぬぐって、占部に問う。
しかし、彼は反対にくちびるをとじて、顎に手をあてた。
どう答えればいいのか、考えあぐねているらしい。
風が銀子のほおを吹き抜けたころ、占部はそっと口を開いた。
「はっきり言って、分からねぇな。だが、言霊は危険な力だ。ことばの通りになる。死ねと言えば死ぬ力だ」
「そんな……」
「言霊の力を持つものは、私が知るかぎりおまえだけだ。銀子。だから、余計鴉どもが騒ぐ。殺して、月虹姫のものにしようとしている。あいつには言霊の力はないからな。夢見の力は、先見の力だ。ゆめをみて、先を見る」
「……」
「だから、力の使い方を間違えるな。おまえには……つぐみのようになってほしくないからな」
そっと、占部がまぶたを伏せる。
那由多とおなじ表情。自分のつらい思いをはき出したときよりも、辛そうな表情。
やはり、占部はやさしい龍だ。自分以外のひとを思いやることが出来るのだから。
(――大嘘つきだから。)
ふっと、カガネの声が聞こえた気がした。
そう、カガネは占部を「大嘘つき」と言っていた。
それでも、銀子は占部を信じている。やさしい龍だと、今の辛そうな表情は、占部の「ほんとう」だということを。
かさ、と音がした。
占部は素早くその音がした方角を見据えて、銀子の腕をとる。
振袖の八卦が見えてしまうくらいに、占部はつよく銀子の腕をひいた。
そして、木の陰にかくれるように、銀子の体を占部自身へとおしつける。
「な……」
「喋るな」
するどい、ナイフのような声。
音は、つづいている。それでも、姿が見えない。
その音は、着実にこちらへ向かっていた。
「いいか。何があっても声をだすな。今、まじないをかけた。おまえが喋らなければ、おまえの姿は見えない」
「……」
銀子はちいさく頷いて、くちびるに手をあてた。
くびすじに、占部の長い髪の毛がふれる。おしつけている彼の体は、とてもあたたかかった。まるで、ちいさくくすぶる火のように。
「鴉だ」
かすれた声で、占部は呟いた。
銀子はぎくりと体をゆらせて、くちびるをぐっと噛みしめる。
かすかに見える、木々の合間。
そこには、ちいさな女の子がいた。
おそらく、銀子よりも幼い。小学生といっても、おかしくはないだろう。
髪の毛は黒曜石のように黒く、つやがある。
彼女は巫女がきるような、千早に緋袴を身につけていた。
そして、銀子は理解する。
彼女が――月虹姫だ。




