一、
雪が降っている。
ほんのすこしだけ。初雪だ。手にのせると、すっと溶けてしまった。
「銀子、そんなところにいると風邪を引いてしまうよ」
「あ、那由多! 雪だよ。雪が降ってきた!」
伊予姫がある中庭に立っていると、那由多が通りかかった。
はしゃぐ銀子を見て、彼はやさしい表情でほほえむ。それでも、彼の表情の奥には、底知れないなにかがあるような気がした。
「鵺の森の冬は早く、厳しい。火鉢をだそうか。それに、こたつも」
「こたつ、あるの?」
「あるよ。行火だけどね」
「そうなんだ。あ、占部!」
廊下のさきから、占部がだるそうに歩いてくる姿をみつけ、草履をぬいで廊下にあがった。
「占部、外に出たい!」
「ああ? 何だ、いきなり」
「雪ふってるから。山、きっときれいだよ」
「冗談じゃねぇ。寒いだろうが」
あたたかそうな髪の色をしているけれど、やはり龍も寒いのだろう。腕をさすって寒そうにしている。
たしかに寒いけど、それよりも外の景色が見たい、と占部にいっても、いやだの一点張りだ。
「占部、最近は銀子も部屋に閉じこもったままだ。久しぶりに外に出たらどうだい」
「……ちっ、しかたねぇな……」
「やった! 準備してくる!」
廊下を走っていく銀子を、ふたりが見送る。
伊予姫の木は、いまだ花をつけていた。赤と白のコントラストがうつくしい。
「銀子は、まだ危うい」
ふいに、占部がつぶやく。
ルビーのような瞳は伊予姫の木へむけられていた。
那由多はなにもこたえない。
「生きながらえることができるのかどうか、まだ見極めができねぇな」
「そうか……。きみも、まだ分からないか……」
「札の印書きも、だいぶうまくなった……が」
「どうした?」
彼はそっと息をついて、眉間に手をあてた。
それを見守っていた那由多は、おのれの手を見下ろす。病的なまでに白い、雪のような手。しかし、爪は黒いマニキュアをぬりたくったように黒く、長く鋭い。
彼は、おのれの手が嫌いだった。
鋭く、冷たい手。
ふれた誰かを傷つけてしまう手が。
「力をうまく、コントロールできていない。カガネの城から帰ったとき、鴉に襲われただろう。それから、何度試しても炎は不安定だ」
「……銀子がまだ、少女だからだろう。気持ちがまだ不安定だ。つぐみと違い、彼女は家族に捨てられた」
「つぐみと比べるな。銀子とつぐみは違うと言ったのはおまえだろ」
「そうだった。すまない」
「ふん。相変わらず、食えねぇやつだ。まあいい。訓練は続けるが、結果どうなるかどうかは分からねぇぞ」
「きみに任せるよ」
那由多がそっとほほえむと、その場から立ち去った。
残された占部はため息をつき、銀子がくるのをただ待つ間にも、雪は降り続いている。
伊予姫はただ寒そうに立っていた。
「占部!」
「……。着ぶくれてんなあ」
首にマフラーと、長羽織りを何枚か着込んでいる。
占部がおもわず呟くと、彼女はすこし気分を害した顔で、藤が着ていけっていうから、とほおを膨らませた。
彼女のほおは白いが、ほんのすこしだけ、赤くなっている。
おそらく、それでも寒いのだろう。
「行こう、占部」
「札は持ってるな」
「え? うん、もってるよ」
不思議そうに首をかたむける銀子は、ほんとうにただ外を見たいだけらしい。
これまで札の使いかたを何度か教えてきたが、彼女は飲み込みが早い、と思う。しかし、すすんで教えを請うことはない。
「外でも訓練できるからな」
「……うん」
玄関から出て、アソウギ通りと反対の方角へむかう。
銀子が倒れた場所につれていくのは、わずかに抵抗があったが、あそこがいちばん山がきれいに見える。
「おまえ、札を使うのが嫌いか」
「え?」
「まあ、戦うのが好きってわけじゃなさそうだからな……」
もこもことした銀子を見下ろして、頭にいつの間にか乗っていた、なごりの葉をつまんだ。
その葉は黄色く、すこし黒ずんでいる。占部の指から離れていった葉は、ひらひらと舞って、やがて土のうえにおちた。
「戦うのは、いやだよ。怖いし、鴉だって、妖怪。やさしい妖怪たちを傷つけるのも、こわい」
「お人好しだな、おまえ」
「……占部は、守るんでしょう。ただ戦うことと守るために戦うことはちがうよ」
「おなじだ。どっちも血が流れる。それに私は、守る守らないをえらぶ。私が守らない妖怪が死んでも殺されても、なにも思わん」
「占部。それが占部の考えなら、私はなにも言わないよ。だって、守るのはあなただから。私にはね、占部、あなたがとても孤独に見える。だって……ときどき、とても暗い目をしているから」
風が吹いた。
銀子と占部の髪がそっとゆれる。まわりに何本もたっている木々の、枯れた葉が舞い散る。まるで、モザイクのように占部の顔をなでた。
占部の燃えるような瞳の色が、暗くくすぶる。
火が消えてしまう直後の、暗闇の色。
「私は、もとからひとりだ。生まれたときからな」
「那由多がいるじゃない。那由多は、友達じゃないの?」
「あいつは友達なんかじゃない。ただの腐れ縁だ」
「……ひとりは、さみしい。かなしいよ。占部は、そう思っていて哀しくないの? 辛くないの」
「哀しい、辛いっていう思いは、ない。邪魔になるだけだ。私は、鵺の森の守護龍だ。それ以上でもそれ以下でもない。なにも、ない」
占部はそっと瞼をふせた。
そこには、いつも飄々とした占部の姿はどこにもなかった。
気高い、守護龍。それ以上でも、それ以下でもない。それはきっと、かなしいこと。つらいことだ。
「なにもないなんて、そんなことない!」




