六、
湖から消えたつぐみの影。
銀子がひとりで話していた様子を、占部は静かに見守っていた。
「占部。あのね、つぐみは、さみしくないって。大丈夫だよって言ってた。あたたかい海にいるからって」
「……そうか。海にいるのか。あいつは」
「うん」
赤い瞳を湖へとむけている彼は、きっとつぐみを思い出しているのだろう。
「つぐみは、どんな子だったの」
「んなこと聞いてどうする」
「とてもいい子だったから。つぐみの思いが私を呼んだからって……」
「……つぐみは、純粋な娘だった。この世界をありのまま受け止め、そして受け入れてきた。だから、殺されたんだろう」
純粋。
ありのままを受け入れた子。
だから――自死を選んだ。こころを殺された。
彼は馬の手綱をひいたまま、湖の底をみおろすように目を細める。
清くうつくしい湖面は、鏡のように占部の赤い瞳をそのままうつしていた。
この湖のように、彼女のこころは世界をうつしていたのだろうか。
手の中の都雅の花束を、そっと湖のなかに沈めた。
泡をまとって沈んでゆく花束。
重しをつけないで沈めることができたのは、きっとつぐみが望んでいたからだろう。
占部は、それからなにも言うことはなかった。
ただ、湖をそっと見下ろしているだけだ。
空が白く染まっている。
彼女の髪の色のように、白く、白く。
「そろそろ行くぞ」
銀子が着ている、色無地の着物の裾がはためいたころ、彼は言った。
風が出てきたのだ。
「うん」
冷たい風。
かなしい温度。
つぐみのこころを置き去りにして、二人は馬に乗った。
馬の長い足が、草をかきわける音。
風のつめたい音。
そのなかに、つぐみの声が聞こえた気がした。
「ただいま、那由多」
アソウギ通りの馬小屋に馬を返し、屋敷につくと、まっさきに銀子は那由多の部屋へむかった。
彼はあいかわらず書き物をしていて、墨のついた筆をそっと置いて、顔を上げる。
「おかえり。どうだった。彼女とは会えたかい?」
「うん。白い影だったけど、つぐみを話ができたよ」
「そうか……」
エメラルド・グリーンの瞳を眩しそうに細めて銀子をみつめ、くちもとをゆるめた。
そしてそっと立ち上がり、丸窓へむかう。銀子もならってその丸くくりぬかれた窓に寄り添った。
「つぐみは、この丸窓が好きだった。ここから見える月が、いちばん好きだと言っていた」
「そうなんだ……。似ているのかな。つぐみがいる海の月と」
「そうかもしれないね。彼女は月が好きだったから」
辛そうだった。
那由多はとてもやさしい妖だ。それは知っている。それでもたまに、銀子に読ませないような表情をするときがあった。
なにかを隠しているような気がする。けど、彼に問う勇気はなかった。
「あのね、つぐみ、寂しくないって。あたたかい海にいるからって。そう言ってたよ」
「さみしくない、か……」
つぐみと同じ、雪のように白い髪がゆれる。まるで、風をまとったように。
「彼女はやさしい少女だった。そんな少女を、死に追いやったのはわたしたちだ……」
「でも、つぐみは誰も恨んでいないようだったよ」
「うつくしい少女だったからね。……だれも恨まない。だれも妬まない。そんな清く、きれいな少女だった。だからこそ、こころのなかに淀みがたまってしまったのだろう。はき出せなかった。こころの奥にたまった鬼を」
「……」
「銀子。きみは、つぐみのようになって欲しくないんだ……」
「ならない。自死は、とてもかなしい死に方だから」
彼はそっと銀子を見下ろして、かすかにほほえんだ。
やさしい笑みだった。
手がでないほどの、長い袖を銀子の頭にのせて、そうっと撫でる。
「それでも、覚えておいて欲しい。きみは、つぐみの代わりではないということを」
「うん」
「たとえ、つぐみの力がきみとおなじだったとしてもね」
「うん」
那由多は、安心したように再びほほえむと、長い裾をひきずって、文机の前にすわった。
いつもいつも、何を書いているのだろう。
丸窓がある場所から覗いても、流麗な文字だけれど、何を書いているのかは分からなかった。
人間の世界の文字と、鵺の森の文字はちがうのだろうか。
「ねえ、那由多。いつも何を書いているの」
「ああ、これかい。これは、手紙だよ。さまざまな妖へのね」
「さまざまな妖……?」
「わたしは、ある城主の姫から鴉の監視を任されているんだ」
その「姫」への手紙を書いているのだという。
それでも、占部は那由多は「外に出られない」と言っていた。
どうやって監視をしているのだろう。
彼は、まるで銀子の疑問を見透かすようにこう答えた。
「わたしには、幾人かの式神がいるからね。この屋敷からでなくとも、監視は出来る」
と。
たしかお手伝いさんのような藤も、那由多の式神だと言っていた。
「さあ、今日は疲れただろう。夕餉ができるまでお休み」
「うん」
たしかに、慣れない馬にゆられるのは疲れた。
その夜、きれいなゆめをみた。
つぐみがいる海ではない、きれいな海。
まるで空のような、透明な海のなか。
ギンイロがいた海だ。
銀子の海。
白い砂のなかから、ちいさなさんごが顔を出していた。
守らなければならない。
このうつくしいものを。




