五、
鞍はかたい。馬にのってから30分はたっただろうか。あと30分でつくという時に、うしろにすわっている占部の手が馬の手綱を引いた。
馬はその力に忠実に、草むらのなかで止まる。
「占部、どうしたの」
「馬に水を飲ませる。このあたりにも湖があるからな」
彼はひとりで草むらに降りると、銀子をのせたまま手綱を引いた。草をかきわける、かわいた音を聞きながら、すぐに見えた湖を見上げる。
きれいな場所だった。
しらかばのような、白い木がたくさん生えている。真っ青に染まってしまったような湖。
もとからこうだったのか、後天的にこうなったのか、分からない。
「銀子、ゆっくり降りろ」
「う、うん」
鐙に足をひっかけ、そっと降りる。
馬は長い首をおろして、湖の水をおいしそうに飲み始めた。喉が渇いていたのだろうか。
その姿は、まるで絵のようだった。
白い木、青い湖。そのなかで水をのむ白馬。
「ずいぶん地味な着物を着てきたなあ」
「占部だって、長襦袢白だよ」
「血で汚れたんだよ」
嘘だと言うことはわかる。
つぐみを悼むためだということ。それが白い長襦袢を着てきた意味だ。
それでも銀子はなにも言わない。
「そろそろ行くぞ」
「うん」
ふたたび占部にひっぱられて馬に乗り込む。馬の腹を蹴らないようにのるのは、すこしだけ難しかった。
彼が手綱を引くと、馬は素直に走り出した。草をかきわける音。空気が冷たい。まるで、氷をほおに宛がったようだ。
きんとした冷たさが、ほおを刺す。
森のまわりは、人工物はなにもない。ただ、木々と草、そしてときどき赤い実をつける、ハナミズキの木があるだけだ。
きれいだけど、さみしい場所。
「……?」
直後、耳に雪がそっと舞い降りたような、かすかな音が聞こえる。
ちいさな音だ。とてもとても、ちいさな音。
粉雪が地に落ちたような、かすかな音。
銀子は首をそっと伸ばして、まわりを見回した。
「あ……」
銀子の背くらいの、白い影。
木々の合間をぬうように、走っている。まるで、不安や悲しみから解き放たれたように、無邪気に。
「つぐみ……?」
「何か言ったか」
うしろにいる占部が問うも、言うべきかすこしだけ、迷う。
彼女が、つぐみがいるということを。楽しそうに走っているということを。
「占部、つぐみが亡くなった湖って、このあたり?」
「そうだが」
「つぐみが呼んでるみたい」
まるで誘うように、彼女は止まったり、走り出したりしている。
占部の手が、ひきつるように動く。
そして、そっと呟いた。
「まだ、ここにいるのか……」
「まだ、って、ここで見たことあるの? つぐみを」
「私には見えない。聞こえない。なにもな」
「そうなんだ……。でも、つぐみ、とても楽しそうだよ」
こごえそうなほどに冷たい髪の色。髪の先がふわり、とゆれる。
彼女にいざなわれて、5分ほどたっただろうか。
いきなり視界が開けた。
「すごい……。すごく、すきとおってる……」
つぐみが自死をした湖は、とても、とてもきれいな場所だった。
太陽の光で、きらきらと湖面がやさしく光り輝いている。やわらかな、まるで虹のような光をもつ色。
月がでる時間になると光が湖面を透けて、きっと底まで届くだろう。
つぐみは、還ったのだ。
月へ。そして、光のなかへ。
まわりは先刻の湖とおなじ、白い木々がまわりをぐるりと囲んでいる。
葉はほとんどつけていないが、時折、黄金色の葉がぽつりぽつりとついていた。
その湖の上。
つぐみが立っていた。
湖面の上を踊るように、彼女はくるりとまわったり、楽しそうに走っている。
「きてくれたの」
やわらかな、雪のような声。
占部は、ほんとうに聞こえていないのか、馬の手綱を持ってぼんやりと湖を見下ろしている。
「うん。つぐみ。約束したから。夢じゃたしかなこと、覚えていられないよ」
「ありがとう。銀子。たしかなことにしてくれたのね」
「つぐみに、お花を持ってきたよ。都雅っていうお花」
「私に?」
ぼんやりとした影だから、輪郭だけしかわからない。
目や鼻、くちびるは見えない。
それでも、彼女はすこしだけほほえんだ気がした。
「都雅。私がだいすきだったお花よ。ありがとう。銀子。この都雅はね、白のほかに、黄色、赤、紫があるの。でも、私はこの白がいちばん好き。だって、とても純粋で、清いもの。雪のように、白い色……」
「そうだったんだ。よかった。……ねえ。つぐみ。私が話しているあなたは、一体なに?」
ふいに問うと、つぐみは顔をそっとそらせた。
太陽の光が、かすかに白い影に反射して、彼女が月のように輝いた気がした。
「今の私は、この湖で死んだあとの残滓」
「死んだあとの……残滓?」
「そう。私の殺されてしまったこころが、この湖に還ったの。この湖で、残っているのはそれだけ。私の骸は、海にねむってる。私がそう願ったから」
「そうなんだ……。だから夢は湖じゃなくて、海だったんだね」
「そうなの。海は好きよ。とても。誰もが還る場所。寂しくない。あたたかいの。とても」
「そっか。さみしくないなら、いいんだ。私、あの場所、とてもさみしい場所だって思ってたから」
彼女は、ほほえんだ雰囲気をだして、そっと占部を見上げた。
目は見えないのに、すこし、眩しげに目を細めたように見える。
「夢をわたってきてくれて、ありがとう。私は今、さみしくない。そう伝えて。占部と、那由多に。あのひとたちはとてもやさしいから、私のことでこころを砕いてしまっている」
「……うん。わかった。占部にもあなたが見えたらいいのにね」
「私が、そう願ったから。私が見えたら、占部たちはきっと、私を慰めてくれようとしてくれる。でも、私はもうよかったの。自死を選んで慰められるのは、それでおしまいにしたかった。だから、いいの」
つぐみのぼんやりとした影が、徐々に消えてゆく。
まるで霧のようにぼやけはじめた彼女は、とてもやさしいほほえみをしているような気がした。
「お花、湖に沈めておくね」
「うん。大事にする。また、あおうね。さみしくないけど、お話しできるのは、あなたしかいないから」
彼女はそっと手を振って、くるりと背をむけた。
その影が徐々に消え去っていくのを、銀子は見つめた。




