四、
「ゆめを見たよ」
朝食を食べたあと、ふたりにそう告げた。
那由多の顔がすこし、こわばったように固まる。
「つぐみっていう子が、でてきた。私とおなじ力を持っていたって。でも、こころを殺されて、自分から死を選んだんだって……」
「そうか……。彼女は、ほかになにか言っていたかい?」
ちゃぶ台の上にある茶碗や、湯飲みはすっかり空になっている。
占部をそっと見上げると、丸窓をぼうっと見つめていた。太陽はもうとっくに上っていて、その先にある枝の影がちいさくゆれている。
「鴉によって鵺の森が壊されるのが怖かったって。鵺の森が好きだったって言ってた」
「……つぐみが……」
那由多のエメラルド・グリーンの瞳がふせられた。彼女は自死をえらび、そして海の底にねむっている。誰もくることがないような、さみしい場所で。月だけが出ている、哀しい海で。
「つぐみを知っているんだね。那由多は」
「ああ、知ってる。わたしは、彼女を守りたかった。けれど、彼女は――ある日突然、湖のなかに入って死んでしまった。すべては、わたしたちのせいだ。まだあどけない少女であったというのに。こころが壊れてしまったことに気づくのが遅かったんだ」
彼の瞳は暗く辛そうな色をたたえ、後悔していることを如実にあらわしていた。
汚れのない雪のような髪の毛をしたつぐみ。
彼女も、妖怪を見ることができるからと、家族に捨てられたのだろうか。分からない。
「その湖に行きたい。行って、お花をそえたい」
「……。占部、行ってくれるかい」
「ああ? しかたねぇな……」
「ありがとう」
銀子は茶碗をもって、台所にむかった。
自分がつかった食器は自分で片付けるのが、当たり前になっていた。
ここにきて、ひと月がたっていたのだ。
冷たい水を手にあびながら、銀子は蛇口にうつる、ゆがんだ自分の顔をみおろした。
こころを殺された。
それは、どんなに辛いことだろう。
辛いということも、哀しいということも、嬉しいということも――ぜんぶ、分からないんだ。
そぎ落とされてしまったこころは、もどらない。修復できない。
銀子は食器をふいてから、自室にもどった。
桐箪笥のなかには黒い着物があって、これを身につけようと丁寧に畳の上においた。
色無地だった。
まるで、海の底にいるような黒い色。
白い長襦袢に、そっと黒をはおる。
くるぶしまで着物を上げる。おくみを整えて、腰紐を結ぶ。おはしょりを手のひらで作る。伊達締めを前でむすび、着物の形を整えた。
姿見にうつる銀子は、ほぼ機械的に帯を締めていた。
締めおわったころ、襖のむこうで占部の急かす声が聞こえてくる。
「おい、銀子。まだか?」
「今行く!」
急いで襖を開けて、占部のそばに走りよる。
「あ……」
銀子は、そっと息を飲み込んだ。彼の――占部の長襦袢が、白かった。いつもの緋色ではない。悼むための色だ。
だが占部は、何事もなかったように銀子に背中をむける。
つぐみは――。それだけで、彼女はとても素晴らしい人だったのだと知った。
(きっと、私はそんな人にはなれない。)
なぜなら、銀子はつぐみではないからだ。おなじひとにはなれない。
「ここからつぐみが死んだ湖まで、二時間くらいかかるんだが……。馬に乗った方が早いな。おまえも、二時間歩くのは疲れるだろ」
「え? 馬? 馬がいるの」
「人間の世界の馬とはちょっと違うがな。どうせおまえ、馬に乗れないだろうから、私の前に乗れ。いいな」
「うん」
占部は早口でいうと、背中をむけてアソウギ通りのある方角へ歩きはじめた。
花を買うためだろう。
この寒い時期に花があるかどうかは分からない。
アソウギ通りの両脇につらなる出店をのぞいても、花を売っているところはどこにもない。
「お花、ないね」
「そりゃ、こんな時期だからな」
肩をおとして歩いていると、ふいに高い音程の声が聞こえてきた。
「いらっしゃい。お嬢ちゃん」
にこっと笑った、ねずみのような女の商人が、今度は着物のほかに花も売っていた。
その花は白く、まるで菊のような落ち着いた色をしている。だが、その花は菊でなかった。菊よりも、花びらがびっしりと細かく連なっている。
「あ、お花!」
「花? ああ、これかい。うちの裏庭に咲いている都雅という花だよ。きれいだろう?」
「うん。ねえ、占部! このお花にしよう!」
「あ? 何でもいいから、馬借りてさっさと行くぞ」
「いつもありがとうございます。占部さま!」
彼女は頭をさげ、紙につつんで花を手渡された。
都雅という花に、鼻を近づけてもかおりはしない。
「きれいなお花だね」
「知らん。さっさと馬借りに行くぞ。こっちだ」
「う、うん!」
アソウギ通りのいちばん奥に、馬小屋があった。白い馬が小屋から顔を出している。
とてもきれいな馬だ。透けるような白。
「占部様じゃないですか。馬をご所望で?」
「ああ。5時間くらい借りるぞ」
主人にそっけないことばを返すと、一頭の馬を小屋から出した。
「すごい。真っ白!」
きれいな毛並みの馬は見ても、人間の世界の馬とどう違うのか分からない。
赤い馬具をつけられた馬は、とても神々しく見える。
まるで、どこかで見た神馬のようだった。
占部は鐙に足をかけて、軽々と馬に乗る。
「ほら、手を出せ。いいか。ぜったいに馬を蹴るなよ。危ねぇからな」
「が、がんばるよ……」
高い位置にある鐙に足をかけて、そっと馬にのぼって占部に支えられながら前に座った。
足が開いてしまうので、袴のほうがよかったかもしれない、と今更思った。




