三、
「鴉の二人とやりあったようだね」
銀子は自室でやすんでいる。
文机から顔をあげた那由多は、しずかにつぶやいた。
ごろりと横になったまま、顔をしかめる。
「どこまで知っているんだ。おまえは」
肘を畳におしつけたまま、占部はうめく。
「わたしには、幾人かの式神がいる。わたしはここから出られないからね」
「そんなことは分かっている。いやみだ。ただの」
「そうか。それは悪かった」
「けっ」
相変わらず、つかめない男だ。
外は、月が出ている。静かな夜だ。これ以上ないほどの。
「銀子の力は、あいつによく似ている」
「言霊の力と、夢見の力か……」
「ああ。あいつが死んで、何年たったんだろうな。まるで、代わりのように銀子がやってきた」
「わたしは、彼女の代わりだとは思っていないよ。人の言葉と言葉をつなぐ力を持っていることも、ゆめをみる力を持っているとしても。だが、そうだね。もしかすると、彼女が呼んだのかもしれない。銀子を」
そっと息をついた男は筆をおき、なにかを思惟するように口を閉じた。
白い髪の毛がかすかに揺れ、那由多が立ち上がった。
黒い長袴をひきずり、丸窓の外をみつめるように視線をあげる。
どこか、とおいところを見つめているような目をしていた。
「あの子は、なぜ――自死をえらんだんだろうね」
那由多の辛そうな顔を見上げる。丸窓からは、月の光がすけて入ってきていた。白い光。それが、影をつくる。
「重荷だったんだろ」
「そうだね。そうかもしれない。でも、たしかなことは誰もわからない。もう、あの子はいないんだから――」
暗い暗い、海のふちで、ゆめをみた。
まるい月が、海のうえで静かにたゆたっている。
くるぶしまで波がうちよせて、ひいていく。
そして、銀子は今、ひとりではないことに気づいた。
白い、真綿のような髪の色をした少女が立っていた。月に照らされたほおは、病的に白い。
「あなたはだれ?」
「私はつぐみ。鵺の森に招かれた、人間だったもの」
「鵺の森に招かれた……。私と、おなじ? それに、だった、って……」
銀子とおなじほどの年齢の少女は、きれいな薄紫の振袖を着たまま、海に足をひたした。
引き潮につれていかれるように、彼女の体がくらりとゆれる。
透きとおってしまうような髪の色。
「私は、だめだった。できそこないだったの。鴉から守ってくれた妖怪たちはたくさんいたけど、私のこころは、殺されてしまっていた……。とうの昔に」
「……あなたは、もしかして……」
「そう、私はみずから死を選んだ。解放されたかったの。力から。妖怪たちの誰とも違う、ことばからの呪縛。夢をみることを強制される、
釧……」
つぐみの表情はうつろで、硝子細工のようにもろい。まるで、ヒビの入ってしまった硝子のようだ……。ひとたび触れれば、壊れてしまう。割れてしまう。
銀子は、つぐみの手をそっと握りしめた。
おどろいた彼女の表情は年相応で、瞳にすこしだけ、光がさしたように見えた。
「あなたが、私を呼んだんだね」
「そうね。無意識の湖の底で、私はあなたを呼んでしまったのかもしれない。ごめんなさい。辛い思いをさせてしまった……」
「私はかまわないよ。だって、私は結局、たすけてもらったんだから。あなたのほうが、きっと辛い思いをしてた」
「……うん」
真珠のような瞳から、涙がこぼれおちる。
つらかったのだろう。
すっと透明なうつくしい粒がほおを流れ、彼女は決心したように銀子を見つめた。
「気をつけて。こころを殺されないように。あなたは、私の力を受け継いだ子。でも、代わりなんかじゃない。それだけは覚えていて」
「どういうこと? 受け継いだ、って……」
「私がいなくなって、鵺の森は鴉の軍勢がすこしずつ、増えていった。私、鵺の森が好きだった。でも、壊されてしまうと思ったの。鴉のせいで、鵺の森が壊されていくことが怖かった。だから、呼んでしまった。おなじ力をもつあなたを」
「そうだったんだ……」
そっと手を離すと、つぐみはそっとほほえんだ。
まるで、ちいさな花のように。
風がでてきた。波がたち、髪の毛がゆれる。
着物の裾が、かすかにはためく。八卦の、うすい桃色が見えた。
布がこすれあう音がきこえて、銀子はそっと裾をおさえる。
つぐみはそっと銀子の顔を見つめて、ふたたびほほえんだ。
「私、もう行かなくちゃ。私はこの海の底で眠ってる。また、きてくれる?」
「うん。ゆめが見られたら、きっとここに来られるよ」
桔梗が描かれた染めの着物を着た彼女が、月の光に溶けて消えていく。
あとには、蝶の鱗粉のような、きらきらとした光が残された。
つぐみは、笑っていた。
みずから死をえらんだつぐみの身に、何が起こったのかはわからない。
こころが殺されてしまった、と言っていた。それほど、辛いことがあったのだろう――。
銀子はひとり胸に手をあてて、海の底に真珠のように眠るつぐみをただただ、悼んだ。




