一、
提灯の火が灯っている。それがずらりと並んで、まるで異世界のようだった。
二階建ての木造建築の建物は、明治時代に建てられたものだという。その建物に提灯がつるされていて、ぼんやりと建物のなかを照らしている。
橘銀子は両親につれられて、二階の部屋へ行くため、急な階段を上らなければならない。水浅葱色の振り袖を着ている銀子は、前をあるく両親に遅れないよう、必死に袖と裾を押さえて歩く。
両親は、一度も銀子を振りかえることなく、二階の踊り場をすぎて、二階のいちばん奥の部屋へと入っていった。
階段の端には、ちいさな鬼たちがこそこそと何かを話している。
銀子は手すりにつかまって、ちいさな鬼たちの声に耳をかたむけた。
「何を話しているの」
ぼろぼろの着物を着て、赤い顔をした鬼二人は、こちらを見上げて、にいっとわらった。
「秘密のはなしだよ」
「ひみつのはなし?」
「そうだよ。ひみつのはなし。この二階にはね、鬼がいるよ。怖い怖い鬼が!」
「あなたたちだって、鬼だよ」
「そうさ。でも、あっちの鬼のほうがよっぽど怖い!」
「?」
「銀子!」
階段のすみですわっている銀子を一喝したのは、母。鬼のように顔をゆがませて、銀子を見下ろしている。
(鬼だ――。)
銀子はかすかに思い、手すりにつかまって階段を上るが、すでに母は銀子を見ずに奥の部屋へと入ってしまっていた。
ふつうのことだと、思っていたのだ。
ちいさな妖怪たちや、おおきな妖怪たちが見えることを。それがちがうと理解したのは、先日のことだった。
両親や祖母が銀子を異様なものを見るようになったのも、先日のことだった。
「……失礼します」
銀子は冷たい床に座り、襖のむこうがわにいるはずの祖母と両親に声をかける。
「お入り」
しわがれた声が聞こえて、襖をそっと開けた。
だいだい色のランプが部屋を明るく照らしており、上座に色無地の着物を着た祖母がすわっている。
「あっ」
祖母のうしろに、一つ目の大きな鬼が窮屈そうに座っていた。この鬼もぼろぼろの着物を着て、じっと祖母を見下ろしている。おもわず声をもらした銀子には目もくれず、鬼は祖母を見下ろしたまま何も言わない。
あの小鬼たちが言っていた鬼とは、このことなのだろうか?
「何を見ている。銀子」
「あの……。鬼が……」
「銀子!!」
母の怒号が走り、おもわず肩をすくめる。長い、ゆるい癖のある髪が揺れ、自分の母の顔を見て、凍り付く。
鬼がいた。
目と眉がつり上がり、鬼よりも恐ろしい顔をしている。
母は、前はやさしかった。
銀子にいつもやさしくしてくれていた。小学校に通っている銀子を、帰ったときはいつも出迎えてくれた。だが、つい先日――。小学校を卒業して、中学一年生になったその日だった。母が豹変したのは。小学校のときも、その前の幼稚園に通っていたときも、いつもやさしかった母は今や豹変してしまった。
「銀子。おまえ、いい加減にしなさい!」
「……でも、鬼が」
「銀子!」
「いい加減にするんだよ! なにが鬼だ。ああ、嫌だ嫌だ。こんな悪魔のような子が橘の家にいるなんて」
祖母は身震いするように腕をさすると、にらみつけるように銀子を見下ろす。
祖母の前に座らされた銀子は、何故自分が責められているのか分からずにいた。何よりも不思議だったのだ。何故、彼女たちは鬼や妖怪たちが見えないのだろう、と。
「……おばあさまも、おかあさまもおとうさまも、何故見えないのですか? 見えることが、ふつうなのではないですか?」
「お黙りッ! 気味の悪いことを言うんじゃないよ! 鬼や妖怪なんて、いるものか!!」
水浅葱の振り袖がふわりと揺れる。ちいさな妖怪たちが、畳の上を走り回っているのだ。それでも銀子には、走り回る妖怪や、祖母の後ろにいる鬼のほうが、よっぽど怖くない。それよりも恐ろしいのは、祖母だ。祖母や、何も言わない父、そしてただ銀子の名を叫ぶ母たちのほうが、よっぽど怖い。
「銀子。おまえはこれから一人で生きていくんだ。いいね。もうおまえは橘の家の子どもではない」
「え……?」
まるで、後頭部をハンマーで殴られたような感覚に陥る。
それでも、「ああ、そうか」と理解をしてしまった。「私は、捨てられるのだ――」と。
銀子は今まで、見定められてきたのだ。橘の家にふさわしいのか否かということを。幼い頃――小学生のころは、かわいい空想遊びだと思われて、まだ許されていたのだろう。
そして、下されたのだ。
この子どもは、橘家にふさわしくないのだと。
こんな子どもは、いらないのだと。
「……明日、おまえを森に連れて行く。おまえはそこで暮らすのだ。降りてきてはならん」
「……」
ここに来てはじめて、父の声を聞く。
黒い髪を後ろになでつけた父は、鋭い目で銀子を見下ろしている。その目は、銀子を見ているようで、なにも見えていないように感じた。
父は、祖母のいいなりだ。
それを知っている銀子は、もう捨てられるということを覆せないと理解した。
どこか他人事のように思うのは、どうしてだろうか。
どうして、「いやだ」と泣きついて喚いたりしないのだろう。
冷めているわけではない。
悲しくないわけでもない。それなのにまるで、心に膜が張ったように薄ぼんやりとしてしまっている。
涙も出ない自分が不思議だと思うひまもなく、ただ体が固まってしまっていた。
「ふつうではないから? 私が、ふつうではないから、捨てられるの?」
「……」
祖母も、両親も何も言わない。おそらく、それが真実なのだろう。
「わるく思うな。これは橘の家のためでもあるのだから」
祖母はそう言うと、座布団から立ち上がり、隣の自室へ戻ってしまった。銀子と両親はこの屋敷の隣に住んでいるが、祖母が住む場所へ訪れたことは数えるほどしかない。
祖母は嫌っていたのだ。生まれたときからずっと、銀子を。
理由は教えてもらえていない。
沈黙のなか、次に口を開いたのは――母だった。
そして、気づく。小鬼たちが言っていた「鬼」というものは、「この人たち」のことだったのだと。




