四、
さざんかの花の模様が刺繍された帯を、ぎゅっとしめられる。藤の着付けはとてもじょうずだ。ぜんぜん苦しくないのだから。
「すごいね。藤。藤の着付けはとっても楽だよ」
「そのようにできていますから。けれど、お褒め頂いてうれしいです」
あざやかな紫色の着物。今まで着たことがない、紫だった。
紫色は高貴なひとが着るもの。だから、橘の家では、決して袖をとおすことはなかったのだ。
ほんとうは自分でも着付けはできるけれど、藤にやってもらったほうが苦しくない。
「今日は、占部どのとどちらへ?」
「ええと……。なんだか、えらい人のところに行くみたい」
「ああ……。カガネさまですか」
「カガネ……さま?」
「人間にご興味があるようすです。だからでしょうね。さあ、できました」
「ありがとう。藤」
藤はほほえむと、すっと消えてしまった。彼女はいつも、唐突に消えてしまう。最初は驚いていたけれど、もう慣れてしまった。
ひとりになった銀子は、占部の部屋へむかおうと、襖に手をあてた。
すると、廊下をちいさな音でたたくような音が聞こえてくる。そっと襖を開けてみる。
「暁暗……?」
まんまるの黒い目が、銀子を見上げた。
足もとにいるたぬきに目線をあわせるように、銀子は廊下にしゃがみこんだ。
「やあ。銀子」
ふさふさの毛をゆらしながら、暁暗は口を広げてわらう。
「この間は悪かったね。ひとり、鴉を逃がしてしまっていた」
「いいよ。占部がたすけてくれたから」
「今日は、カガネさまのところに行くんだろう? きをつけてね」
「うん。ありがとう」
彼が「きをつけてね」と言った意味を、銀子はしらなかった。
カガネという妖。
それがどんなひとなのか、なんて。
あわなければ、分からない。
ことばを交わさなければ、分からないのだ。
そのひとを想像することは、六等星をさがすよりも困難だ。
難しく、そしてかなしい。
「あ、暁暗! てめぇ、前、銀子をほっぽって帰っただろ!」
いきなり占部の声が長い長い廊下にひびいた。
暁暗は、悪びれるようすもなく、口をまげて、にやりと笑う。
ひとが悪い笑みを見た気がした。
「そのことなら、銀子にゆるしてもらったよ。ねえ、銀子」
「うん。だって、結局占部にたすてけてもらったから」
「ふん。人のいいことだな。おら、さっさと行け、暁暗。踏みつぶしちまうぞ」
「ああ怖い怖い。龍にふんづけられたら、死んじまうよ」
彼は廊下をすばやく走っていって、やがて見えなくなってしまう。占部は、あいかわらず緋色の長じゅばんと、真っ黒な着流し、そして博多帯をしめている。
銀子がさっと立ち上がると、彼は廊下を歩きはじめた。
ただ占部のあとをついていく。
彼はなにも話さない。男のひとにしては華奢なせなかだ。赤い幣は、歩くたびにゆれる。
「銀子」
玄関を出たころ、占部は注意深く目を銀子にむけた。
くぬぎの木のしたに、どんぐりが落ちている。強い風でころころと動いた。
「カガネは、今、人間に興味があるが……いつ飽きるかどうか分からん」
「え?」
「そういう妖怪だ。カガネは。やつは、鴉とつながっていると聞いた。那由多が調べ上げた結果だ。おそらく、間違いないだろう」
「鴉……って、犯罪者たちのあつまりなんでしょう? それが、えらい人、なんて」
「えらい人、っつーか、一応鵺の森の王だ。鴉に金を横流ししている」
「横流しして、どうするの?」
ざぁっ、と、風がつよく吹く。銀子のながい髪の毛が、ふわりと風にのる。木の実や、落ち葉がシャワーのように落ちた。
占部の角にまかれた真っ赤な炎のような色をした幣が、落ちてゆくもみじと同じようにゆれる。
「月虹姫のことは聞いたな」
「うん」
「やつは、願いを叶えることができる力を持っている。だから鴉に金を横流ししてるんだ」
「そのひとは、なにをかなえたいの?」
「人の願いなんて興味ねぇ。まあ、那由多あたりがまた、調べるんじゃないのか。こんなとこで話しててもらちあかねぇ。さっさと行くぞ」
「……わかった」
ふたたび占部は背中をみせて、アソウギ通りと逆の道を歩きはじめた。
まわりの木々が、みんな赤く染まっている。まるで、炎のなかを歩いているようだ。占部の長い髪の毛もおなじような色だから、目をはなすと見失いそうになる。
かすかな、めまい。
目の前が赤すぎる。
そっと首をかたむけて、目をこすった。
「おい、銀子。ちゃんと着いてこいよ。はぐれたら那由多にどやされるからな」
「う、うん……」
緊張しているんだろうか。
肩がかたく、すこしだけ痛む。
かさり、と落ちた紅葉を踏む音が聞こえた。もみじのじゅうたん。
「……」
めまいがする。
息がきれる。
そっと、木にふれる。がさり、と葉のこすれる音がして、銀子は視線をあげた。
「おい、どうした。銀子」
呼吸が荒くなって、視界がゆれる。すこしだけ焦ったような占部の顔が視界にうつった。
彼女はそっと無意味にかぶりを振って、心臓に手をあてる。
どくどくと脈打つ心臓。ふっ、と意識が誰かに掴まれるように沈んでいった。
「銀子!」
占部の声。
銀子のほそい体が、しきつめられた紅葉のうえに倒れ込んだ。




