契り、結ぶ。
那由多は言っていた。
たしかにきみは、占部やわたしのように長くは生きられない。
けれど、きみと過ごしたこの鮮やかな日々は、占部にとって、生涯の宝物となるだとう、と。
それはわたしも同じ。
きみと過ごせた日々は、たしかにこの心に刻まれた、と。
私は、そんな大げさなことはできていなかったよ、と答えた。
「銀子」
「なに?」
占部の声に、ふりかえる。
手には、籠。
籠の中には、たくさんの野菜。
みんな、畑からとれたものだ。
「いや――、おまえ、背が伸びたな、と思っただけだ」
「そうかな? だったら、うれしいけど」
占部と銀子が結婚式を迎えてから、3年がたった。
半妖の成長の速度は、誰にもわからない。
髪の毛や爪の伸び具合。背の伸びる速度も、一定ではなかった。
数か月爪が伸びない時もあれば、ひと月ほどで切らなければならない時もある。
けれど、3年たってようやく占部が自覚できたということは、今はそういう時期なのかもしれない。
また、止まってしまうのだろうけれど。
「畑仕事は楽しいか」
「うん。藤も手伝ってくれるし、たのしいよ。占部もやる?」
「気が向いたらな」
「そういって、ずっと気が向かないじゃない」
時折、月江がきて、野菜の苗をくれる。
その苗を畑に植えて、その季節にとれる野菜を頂いただく。
最初はうまく育てられなかったけれど、今はもう、慣れたものだ。
呆れたように銀子がわらう。
変わらないな、と思った。
ただ、ひとつ。
銀子の容姿が変わったといえば、腰までとどいていた髪の毛を、ばっさりと肩の長さまでに切ったことか。
畑仕事に邪魔なのだと、そんな理由で切ってしまった。
そのためか、以前よりも大人びて見える。
「今日は何にしよう。春野菜とれたけど、ちょっと今日はまだ寒いね」
「鍋にでもすりゃ、いいんじゃねぇか」
「占部は鍋が好きだもんね」
桜が咲いている。
ざっと、風が吹いた。これでは、桜も明日、明後日ももたずに散ってしまうだろう。
「そろそろ冷える。中に入れ」
「うん」
那由多は言っていた。
こんな穏やかな日々が、きみには、占部には、そして私には必要だったのかもしれない、と。
そう言った那由多の表情は、とてもやさしかった。
今まで、おおくの命を絶ってきた那由多。
ゆるされないことをしているのだ、と那由多は思いながらも、森の裏の王として、しなくてはいけないこと罪を背負うように、つづけてきたのだろう。
それでも、玉斧の件以来、那由多は誰の命も奪ってはいない。
目星もついていないのだ。
誰かがなにかを企んでいる、だとか、そういったさまざまなものが、全くない。
これ以上、罪を重ねなくていいのかもしれない、とも思うが、それはおそらく「今は」その時ではないというだけなのだろう。
また、手を汚す時がくる。
それは知っている。
それでも、銀子が生きているうちは誰も手にかけるようなことは、したくない、とも思っている。
このふたりを見守っていけたなら、これ以上の幸福はない。
「カガネから?」
三、四か月に一度、カガネの城に呼ばれることがある。
未だ采女たちからはいい顔をされない銀子を気遣って、数人しか入れないような部屋で、話をするのだ。
無論、占部も当たり前のようについてくる。
「今日は何だろうね?」
那由多の式神から受け取った書に目をとおしても、特に緊急性はないような文だった。
けれど、それはいつものこと。
ただ、唯一の肉親のコト姫を亡くしてから、銀子と何気ない話をすることは、カガネにとっての息抜きなのかもしれない。
那由多は言っていた。
望んでも、こぼれていくものはこの世界にはたくさんあるのだと。
それでも、希望を捨てられないのはこの世界のやさしさのひとつ、残酷さのひとつなのだと。
星が出ている丘で、占部とふたり、空を見上げてた。
銀子の指先が、ひときわ輝く星に似たものを差した。
「あれが、鵺の森の意思なんでしょう?」
「そうだ」
「私たちのことを、ゆるしたのかな?」
「さあな。鵺の森の意思なんざ、私はどうでもいい。おまえとこうなったのは、私たちの意思だ」
「……うん。そうだね」
銀子はうれしそうに頷いてみせた。
この娘は単純で、嬉しいときはうれしい、と笑うし、悲しいときは悲しい、という。
占部には、それがまぶしい。
占部自身も、自分には正直だと思っていた。
けれど、この娘とは、どこかちがう。
どこがだろうと考えてみれば、答えは簡単なことだった。
この娘は、ひとのために嬉しさを伝え、悲しさを伝えていたのだ。
以前、言われたことがある。
「占部がうれしいと、私もうれしい」
と。
そういうことなのか、と、そんな簡単なことが占部には、あったようでなかった。
「ねえ、占部!」
はじけるような、うれしそうな声。
「また、私を持ち上げて!」
「あ?」
「ずっと前、私を持ち上げて、空を見上げたことがあったでしょう。あの時みたいに……うわっ」
言い終わる前に、銀子を軽々と持ち上げた占部は、それでも銀子のうれしそうな表情を見つめた。
「舌噛むところだったよ」
「噛んでないからいいだろ」
「そうだけど。……変わらないね。占部」
「そうか?」
「うん。私の背は、すこしずつだけど伸びてる。でも、占部は変わらない。でもね、それでいいって、私は思ってるよ」
かすかな静寂が、ふたりを包み込む。
占部の腕のなかにある、たしかな重さ。ぬくもり。
それが、なによりいとおしい。
「私は占部を置いていってしまうけど、私は消えない。占部が覚えていてくれるかぎり。最近、そう思うようになった。前はね、占部を置いていってしまうことが怖かったんだ。でも、分かってたんだよね。占部は」
「そうだな。おまえがいなくなっても、おまえが消えることにはならない」
「うん」
「私のなかに、残っている。ずっと」
「うん」
私は覚えている。
自分の記憶さえ改ざんされた、右も左も分からなかった、か弱い娘のことを。
私を救い、那由多の思いも救い、この鵺の森さえも救った、娘のことを。
私は幸福だった。
そして、彼女も幸せだと笑っていた。
ああ、違う。
あの娘は、「だった」とは言っていなかった。
現在も、過去も、未来も、幸福なのだ。
あの娘は、今も私のなかで生きている。
幸福だ。
声が聞こえなくても、丘の上で感じた、重みもぬくもりも、今はなくとも。
消えない。
あの娘の声も、笑みも、泣き顔も、すべて。
記憶も、思い出も、すべてここにある。
妖が暮らす鵺の森は、今もここに息づいている。
変わらずに、ここにある。
それでもたったひとつ、変わったことがある。
それはひどく平坦で、目を凝らさなければ分からないことだ。
鵺の森にすむ、一匹の守護龍。
彼が、誰かにやさしくなったこと。
たった、それだけのこと。
ただ、それだけのこと。
けれど、それは確かにだれかを救っている。
ひとりの半妖の娘が、そうしたように。




