一、
旭姫や月江がきている、と聞いた。
月江はアソウギ通りの主で、この近くだからそれほど大変ではなかったと思うけれど、旭姫は、だいぶ遠い場所に住んでいるから、大変だったと思う。
銀子の着付けは、藤がしてくれた。
着物がこんなにも重たいなんて、思う日がくるとはおもわなかった。
「さあ、これでおしまいです。重たいと思いますが、今日くらいはがまんしてくださいね? 花嫁様」
「……すわってられるかな」
占部と銀子は、結婚することとなった。
あれから、3年たった。
占部は律儀に、3年後の、同じ日、同じ時間に銀子へもう一度、聞いた。
銀子は迷わなかった。
いや、全く迷わなかったのかと問われれば、迷った、と言ったほうが正直だろう。
けれど迷ったのは、その時ではない。
春がきて、夏が過ぎ、秋がおとない、冬がまためぐる。
その間、迷っていた。
占部を置いていってしまう。
半妖の寿命は、何年か分からない。
けれど、占部の寿命より数百年、いや、数千年短いだろう。
寿命を迎えるまで、また占部はだれかを愛するかもしれない。
そう思うと、すこし胸が痛んだ。
占部は言っていた。
銀子との時間を大事にしたい、と。
そうだ、とおもった。
自分も、占部との時間を大切にしたい、と。
寿命のあとのことを考えても、答えなんて出ないに決まっている。
だから、決めた。
銀子は、占部のことが好きだ。
一緒にいたい。
いちばん、となりにいたい。
それだけではない。ことばにできない、あたたかい何かが、銀子のこころにあった。
「銀子どの。さあ、こちらへ。占部どのもお待ちですよ」
「う……うん」
紅を差したのは、いつぶりだろう。
きっと、カガネの城で舞踏会の時以来かもしれない。
「緊張しておいでですか?」
「それはそうだよ」
「そうですねえ、まさか、あの占部どのと銀子どのがこの日を迎えるなんて、あの時は思ってもみませんでしたから」
「私も思ってみなかった」
誰もいない長い廊下を、重たい打掛を羽織って歩く。
裾を踏んで転んでしまわないか、心配だ。
気づいた藤は銀子の手をとってくれた。
「ありがとう」
「いいえ。花嫁様の手をひくことなんて、そうそうないですから」
そして、占部のいる襖の前にたどりつく。
「この奥に、占部どのがいますよ。さ、銀子どの」
「うう……、ちょっと待ってもらって……」
ことばの途中で襖があいた。
開けたのは、銀子でも藤でもない。
占部だ。
「なにボソボソ言ってんだ?」
「わっ」
「銀子どの!」
いきなり開いたので、打掛の裾を踏んで転びそうになったが、藤に肩を支えられてことなきを得た。
「あ、あぶない!」
「あ? あ、ああ……」
銀子の剣幕におされたわけではない。
打掛は鮮やかな赤に、ていねいな手刺繍で白い鶴が描かれている。
白い振袖には、金糸で縫われた筥迫を衿に差していた。
これらはすべて、今日の日のために紡ぎ、縫われてきたものだ。
揃えたのは、ひと月前。
今はもう、桜が咲いている。
あたたかい日だ。
まじまじと占部に見られて、気まずそうに銀子はうつむいた。
「馬子にも衣裳っていうんでしょ?」
「んなことはもう、言わねえ」
占部は当たり前のように紋付き袴だ。いつも黒い着物を着ているからか、あまり変わらない気がする。
「いつも通りですね。銀子どの、占部どの」
「いつも通りでいいんだよ、こういうのはただの通過点だ」
「そうだね」
銀子の笑みに、占部はわずかに驚いているようだった。
「今日で終わりじゃない。今日から、はじまるんだもの」
「さ、おふたりとも。那由多どのたちがお待ちです。こちらへ」
藤が促したのは、見たこともない廊下だった。
銀子は目を見開いく。このお屋敷の構造はどうなっているのかいまだ分からないが、もういちいち驚かないことにした。
木目が見える天井と壁。
そこに赤い絨毯が敷かれ、奥までつづいている。
足元に打掛の裾がまとわりつかないように、慎重に歩く。
ここで転んでは、占部に笑われてしまう。
藤の誘導でたどり着いたのは、牡丹と蝶が描かれた襖の前だった。
「う、うごいてる……」
牡丹は風にゆれるようにわずかに動き、蝶は自由に動き回っている。
「あら。銀子どのはご覧になるのは初めてでしたか?」
「襖の絵が動くなんて、はじめてみるよ……」
「那由多が術か何かでもかけたんだろ。ほら」
銀子の手をとって、前をむく。
占部に倣い、銀子も前を向いた。
襖が勝手に開くが何よりも目を奪われたのは、この部屋にいる、妖たちの数。
旭姫も、月江も、アソウギ通りの、ねずみのような商人も、暁暗も、そして、那由多も。
ほかにも、那由多の式神たちもいるし、見たことがない妖たちもいる。
何人いるのだろう。分からないくらい、たくさん。
それでもこの部屋は、狭く感じない。
呆然としていると、占部の、かすかな笑い声が聞こえた。
そして、今更ひどく緊張してくる。
(――さあ、足を踏み出して。)
聞こえてきた声に、え、と声を出しそうになったが、伊予姫だと気づいて、頷いた。
(あなたは、強くなった。変わったところもあるし、変わっていないところもある。優しい子だから、きっとたくさん傷ついた。これからも傷つくこともあるでしょう。でも、恐れないで。あなたには、占部がいる。あなたを、いとおしんでくれるひとがいるのだから。)
高砂や、この浦船に帆を上げて
月もろともに、入汐の
波の淡路の 明石潟
近き鳴尾の 沖行きて
はやすみのえに 着きにけり
誰かが高砂を謡ってくれている。
誰かは分からない。
けれど、力強い、やさしくてあたたかい声だ。
「このハレの日を迎えられたこと、嬉しく思う」
大きな屏風の前にすわった占部は大勢の妖たちの前で凛と、そう言った。




