八、
なにもかもをつつみこむような、雪。
白く、日に当たって輝く雪は、きれいなばかりではない。
足を踏み入れれば汚れる。黒くなる。
銀子は、その雪景色をみつめていた。
紫色の羽織をはおって、あわい桜色の羽織紐で留めている。
着物のすそとゆたかな長い髪の毛がゆれた。
「さむいけど、つめたくない」
となりにいる占部は、意味が分からない、という顔をした。
「鵺の森も、そう。きれいだけど、こころの汚さもある。私は、それを見てきたよ、占部」
「……そうか」
「それがきっと、あたりまえなんだね。きれいなまま、汚いままなんて、ない」
木の幹から、雪がぱさり、と落ちる。
占部は、その様子をぼんやりと見送った。
銀子の、望んだ世界がここにあるわけではない。
占部が望んだ世界がここにあるわけでもない。
那由多の、カガネの、つぐみの、月虹姫の。
それぞれのための世界は、ここにはない。
コトが死んだと伝えられたのは、玉斧が死んだ十日後の、今日だった。
誰かが望めば、それがかなう世界ではない。
どうしようもないこともある。
それが、だれかの命ならば、なおさら。
「公にしないんだね」
「玉斧どもの手のものにやられたんだ。そんな公にはしないだろ」
「……私が気づいたら、なにかが変わったのかな」
「言霊の力は、そう簡単に使うものじゃない。たとえ、命がかかわっていようと、なかろうと。おまえが助けることを望むようなそんな姫じゃない。あいつは」
「そう、なのかな」
「まだおまえは子どもだからな。分からないのも、無理はねぇ」
「……私は、まだ届かない?」
占部は、銀子のことばに視線をさげた。
かじかんだ手のひらを、銀子はそっとこする。
その手はまだいとけなく、ちいさい。
「占部に。まだ、届かない? 私のこころが」
そのことばに、占部はまじまじと銀子を見据えた。
銀子の目じりは赤い。
寒さのせいだけではないことは、分かっているつもりだった。
「銀子。私は、子どもだからとか、大人だからとか、そういう色眼鏡で見てきたつもりはなかったんだが、言葉が悪かったな」
いつになく素直な言葉に、銀子は顔をあげた。
胸元に手をあてる。
占部の逆鱗がはいったお守りをにぎりしめた。
あたたかい。
じわりとした、まるでほのかな熱をもったような、温度。
「いや。最初は、ただの娘に、どうして私が世話しなけりゃいけないんだと思っていた」
風がふく。
銀子は思わず目を閉じて、着物の裾をおさえた。
「だが、今はちがう」
「うん」
切れ長の目が、優そうに細められる。
最近、占部はやさしい表情をすることがおおくなった。
那由多も、前から笑うことはしていたけれど、今はどこか違った笑みをしてくれるようになった。
誰かを安心させるために笑うことよりも、自分が笑いたいから笑ってくれるようになったような気がする。
銀子の頭に、あたたかい手でそっと触れる。
「私は、私の意思でおまえのとなりにいる。だから、届いているはずだ。おまえの、心も」
「……占部」
「おまえへの私の心は変わらない」
真摯なことばだと、おもう
嘘いつわりない、ことばだと思った。
「おまえが分からない、本当のこともあるだろう」
大きな鳥が、空に弧を描いている。まだ早い、春のおとないを知らせるような鳴き声。
占部の、炎の色の長い髪の毛が、ふっとゆれる。銀子と視線をあわせた彼は、はるか昔のことを思い起こすように、目を細めた。
「私もそうだった」
「占部も?」
「私が知らない真実も、この世界にはたくさんあった。だが、今はほとんど知っている。それは、危ういことかもしれないが、私は間違えない」
過ちを犯したこともある。
悔いたこともある。
そう、占部は言った。
「私は恐れない。私の知らない本当のことを知っても、恐れないよ、占部」
「おまえは強くなった」
占部の、骨ばった手が銀子のほおに触れる。
あたたかかった。首からさげている、あの逆鱗よりもずっと。
生きているのだと知った。
「そして、おまえはいい女になる」
唐突に、彼は笑った。
「鵺の森の意思は、これからも続くだろう。間違いを犯した妖たちを、赦さないだろう。それは、鵺の森が崩壊を迎えるまで、変わらない」
「……うん」
「だが、鵺の森の意思はおまえを選んだ。この森にひとりしかいない半妖の子どもを、招き入れた。こうなることを、分かっていたのかもしれない」
占部のことばは、あっちこっち飛んでいて、要領を得なかったが、銀子はその意味を探した。
けれど、探しても探しても、彼の言わんとしていることはとうとう、分からなかった。
そして意を決して問いかけた。
「占部、何をいいたいの?」
「……おまえは」
すこしだけ間を開けてから、彼は言った。
つぶやくように。ささやくように。
「――前、鵺の森の意思を見に行ったことがあっただろう」
「丘の上のこと?」
「そうだ。おまえがもうすこし大きくなったら言いたいことがある、と私は言った」
「おぼえているよ」
無垢な瞳。
それが、占部を見据えている。
同じ高さの、目を。
「おまえはまだ、ちっとも大きくなっちゃいないが、言っておく」
「なに?」
銀子はその先のことばがどんなに重要なことか、まったく分かっていないようだった。
いつもは人の思いに敏感なくせに、こういうところでは鈍感なのだ。
占部はわずかに苦笑いをしてから、銀子の手をとった。
「私と、結婚してくれないか」
「!?」
銀子は目を見開き、息を止めた。
まさか、結婚を申し込まれるとは思わなかったのだろう。本人にしてみれば。
「わ、私は……」
まだ子どもで、と言いそうになったのを、すんでのところでやめる。
このことばは卑怯だ。
その代わり、ほんとうに心から思っていたことをたずねた。
「私は、あなたを置いていってしまう……。それでも、いいの」
「おまえとの時間を、大事にしたい、とおもう。それだけだ」
ぽろ、と銀子の無垢な瞳から涙がこぼれおちた。
彼女自身、泣くとは思いもしなかった。
「泣き虫なところは変わらないなあ」
占部は笑い、指でその涙をぬぐう。
「まだ先のことだが、覚えておけ。先約があるってことを」
「……忘れようとしても、忘れられないよ」
「そうだな。そういう娘だな、おまえは。人の思いを無下にしない。あと3年。3年たったら、おまえにもう一度、聞く」
雪が積もった日だった。
風がすこし、強い日だった。
年を重ねるからおとなになるのではない、と知った日であった。
年が若いからこどもということでもない、とも。
銀子は占部にたいして真摯でいようと、誓った日でもあった。




