七、
事がおこったのは、それからひと月たったあとだった。
秋も深くなり、本格的に険しい冬がおとずれようとしたころ。
灰色のそら。
心もとない色。
玉斧は、とうとうカガネをその手を汚さずに、鴉の残党を率いて殺そうとした、そのとき。
「どういうことだ。話が違う!!」
「いいから、蹴散らせ! 俺を守れ、と言っている!」
玉斧が雇った、鴉の残党10人では、相手にならない。
たった10人。
その人数で、鵺の森の守護者である存在を、傷ひとつつけられることなど、できはしない。
「那由多」
カガネは手に刀を持ったまま、呟いた。
白く輝く、鵺の獣。
「わたしは、裏の王。鵺の森の意思に背いたものを、すべて等しく消し去る、守護者」
だらしない肉をつけた玉斧は、その声に、ひっと喉をひきつらせた。
「那由多……那由多だと! 命を守る存在が、鵺の森の住人を殺すとは、どういうことだ……!」
男は、声をふるわせながら叫んだ。
鴉の残党は、そのことばの意味すらしらず、ただその獣に刃を向けている。
「わたしは迷わない」
「こ、殺せ! 那由多だろうと何だろうと、刃が通るなら――」
エメラルド・グリーンの瞳。
哀れなものを見るような目で、獣は数人の鴉の残党の命を消した。
呼吸をするように。
血さえ流れず、ただ気を失ってそのまま命を失ったかのように、男たちはもう、二度と動くことはなかった。
「ひ……っ!」
その光景に、のこった残党は我先にと広間から走り去っていく。
那由多はあえてそれを見過ごし、一歩、足を踏み出した。
「わたしを怨み、憎むといい。命は、ふたつとない、自分だけのものだ。それが、他人によって消し去ることは何人たりとも赦されない。それを、わたしはしてきた。何千年と。何万人もの命を、わたしは消し去ってきた。赦されない存在だ。だが、ひとりの少女がその罪さえも、その透き通った目で、つぐみが自死したあの湖のようなあの瞳で、わたしを救った。罪は消せない。けれど、それでもひとつの命として生きることを許された」
物語を語る、語り部のように那由多は読み上げた。
それは、ただ恐れることしか許されない玉斧の耳には届いていない。
「今まで泳がせてきたのは、きみが本当に有害かどうか、見極めたかったからだ。残念ながら、きみはこの森にとって有害とみなされた。本当は、自滅するのを見届けたかったが、それも無理なようだ」
那由多は本当に残念だとでもいうかのように、目を細めた。
「なぜなら、カガネを今日、殺そうとしたからだ。殺そうとするものは、自らも殺されるという覚悟があってこそのもの。だが、きみはそれを持っていなかった。だから――さようなら、だ」
玉斧は、あやつり人形の糸が切れたかのように、その場にくずれおちた。
「那由多、本当によかったのか」
玉斧の死体を見向きもせずに、カガネはぽつりとつぶやいた。
「なにがだい?」
「玉斧を殺して」
「わたしは迷わない。迷ってはいけない存在だ」
「それはちがう。あの娘――。銀子なら、迷ってもいいというだろう。われらが王、那由多。おまえも生きているのだから」
那由多は、あの屋敷の外にひとの形で、でることはかなわない。
それはこれからも、ずっと、永遠にそうだろう。
鵺の森の意思が那由多を解放するまで。
「きみも変わったね」
「ぼくだけではない。みな、変わった。占部も、銀子自身も」
「そうだね、そうかもしれない。生きとし生けるものは、みな、変わる。だから、いとおしんだろう。その、命が」
那由多はそれを最後のことばにして、そこから消えた。
まぼろしのように。
だが、那由多は今日もそのいとおしいといった命を消した。
その矛盾を、銀子が救ったのだろう。
那由多に命はない。
死ぬことはないからだ。
それでも銀子は、それを否定するだろう。
誰にでも、いのちはある、と。
鴉の残党の死体数体と、玉斧の死体。
その数体の死体のなかで、カガネはただ、高いだけの天井を見上げていた。
「おまえが何人か取りこぼすから、私が出る羽目になった」
夜、銀子が寝た後に占部は恨みがましく呟いた。
「それはすまない」
そっけなく笑う那由多を見て、占部はふかく息を吐き出した。
酒を酌み交わす。
気づけばたびたび、そうするようにしていた。
占部は夜の屋台にでることも、あまりしなくなった。
「采女たちも、そろそろ戻るころだろう。事情もしらないだろうからね。あそこの女たちはみな、威勢がいいが、手も早い」
那由多はかすかに笑いながら、猪口にくちびるをつけた。
「それはそれで面倒だな」
「わたしの式神たちが、文を届け終えたら、すぐにでも彼女たちは戻るだろう。安心していい」
「なんで私が安心するんだ」
「カガネのことが心配なんだろう?」
「……けっ」
占部の態度に、那由多はそっとほほえんだ。
おそらく、これからも何度かこういうことがおこるだろう。
そのたびに、那由多はその危機を食い殺す。命のともしびを消す。
それは罪だ。
だが、那由多はそれを背負って生きていく。それこそが罰なのだ、と言い聞かせてきた。
けれど、違ったのかもしれない。
生きていくことが罰ならば、笑い、幸福を感じることはない。
それが今までなかったのかと思い返せば、それはちがう、と思う。
那由多は、生きている。
そう気づかせたのは、ちいさく、か弱い半妖の娘だった。




