六、
「……占部?」
木のてっぺんと、その木の後ろにある枝に足をかけて、龍は目をぎょろりと動かす。占部は龍と那由多が言っていたから、おもわず口をついて出てしまった。
「まったく、なにやってるんだ。暁暗と出かけたって聞いて、嫌な予感がしてついてきたからいいものの」
「う、占部……? 占部だと!? な、なんで占部が人間をかばうんだ!」
まるで信じられない、と言っているようにもきこえる。それがすこし気にかかったが、内心、占部が来てくれたことに驚いた。てっきり、面倒くさいと動かないのかと思っていたのだ。
「うるせぇなぁ。おい、おまえ。逃げるか喰われるかどっちかにしろ」
「ひ、ひい……!」
先刻のような、にやにやとしたゆがんだ笑みをする余裕など一切なく、鴉の妖は一目散に逃げていってしまった。
呆然としていると、占部の後ろ足をかけている木の枝が、音を立てて落ちてしまう。占部が重いのか、枝が弱かったのか分からないが、その大きな音におもわず肩をすくめた。
「やっぱり占部なんだ。ありがとう。助けにきてくれて」
「まったく、なんで一人でいたんだ。暁暗はどうした?」
「そうだ! 暁暗、どこに行ったんだろう」
「なんだ、はぐれたのか?」
枝から足をはなし、草むらの上におりた直後、見知ったひとの形に変化した。まばたき一回の瞬間に、ひとの姿になった占部は、あきれたように肩をおろす。
「ううん。私を逃がしてくれたんだ。探したんだけど、どこにもいなくて」
「……一人逃したな。あいつ……」
占部は舌打ちをして、林を抜けようと光のあるほうへ歩き出した。銀子も慌ててそのあとを追う。
空はもうじき石榴石のように赤く染まるだろう。占部の髪の毛とおなじように。
「たぶん、私を見つけて帰っちまったんだろうよ。那由多が言ってただろ。神出鬼没だって」
「うん。信頼できるって言ってたよ」
「ああ? 信頼ぃ? 一人逃してほっぽっておけるようなのが信頼できるって、ありえねぇだろ」
どこかいらいらとしている占部は、自身の頭を掻いてから着流しの袂に腕を突っ込んだ。
今度会ったら覚悟してろよと、ぶつぶつ呟いている様子が、銀子にとって新鮮に思える。
友達はいなかったわけではないが、みな、まるで深い深い森をさまようような目をしていた。自分のことが分からないと考えているような目を。未来には不安を、過去には不満をのこすだけの日々は、幼いながらもくるしかっただろう。
不安と不満しかない彼女たちは、いったい未来にどんなかたちを残すのだろうか。銀子には、分からない。だが、銀子も彼女たちとおなじだ。特別などではないのだから。
でも、占部や那由多たちは、どこかちがう。
(人間と妖怪だから、それはちがうだろうけど……。)
この世界に不満を抱いているのかいないのかさえ、今の銀子には分からないが、それでも、「生きている」と思う。たった二日でなにが分かると言われそうだけど、ここの妖怪たちは生きている。
銀子が知り合った人間よりも、しっかりと。
「占部」
「ああ?」
「ありがとう」
面倒くさそうに返事をした占部に、もういちど礼を言う。
まだ死にたくはなかった、とは言えなかったが、それでも占部は察してくれたのかもしれない。そうして彼はもう一度、口を開いた。
「いいか。守ってやれるのは最初だけだからな。あとはおまえがおまえを守るんだぞ」
「うん」
すこしだけ照れくさそうに早口に言い、椿の色をにじませたような空を見上げた。銀子もつられて空を見上げる。占部のほおは、真綿のように白かったが、今は夕陽に反射して紅色に染まっていた。
「なに見てんだよ」
「夕陽がきれいだとおもって。すごいね。私がいた場所とはぜんぜんちがう。夕陽がこんなにきれいなんて、思いもしなかったよ」
「そうか? 見慣れすぎて、分かんねぇな」
「きっと、私がいた場所に行ったら、びっくりするよ。夕陽、ぜんぜん見えないんだもの」
「夕陽が見えない? どういうことだそりゃあ。そんなことがあるのか?」
「あるよ」
思い出す。
銀子の家は古いが、まわりは建物ばかりだ。ビルもあるし、おおきなタワーもある。だから、夕陽はいつも遠くて、そして欠けていた。けど、今見える夕陽はとてもきれいな丸をしている。
「占部には分からないかもしれないけど、太陽が欠けることって、あるよ。いつまでも丸くない。私が見てきたのは、欠けた太陽。建物に遮られて、丸くなれないんだ。望んでいても、見ることができない。まるで、私と私の家族だった人たちみたい」
ここにきて、はじめてこんなに長い言葉を一気に話した気がして、胸に手を当てた。占部は何も言わない。「そうか」とも、「ふうん」とも、なにも言わなかった。弱音を言おうとしたわけじゃない。それでも、結果的に弱音になってしまった。
「私の家族は、厳格だったんだ。とても厳しかった。おじいさまが亡くなって、おばあさまが当主になった。誰も反対するひとなんていなかったよ。それくらい、深く根付いていたんだと思う。おばあさまが何をしてきたのかは分からないけど、親戚のだれもが、おばあさまを恐れていた。お父さまでさえ。だから、絶対だった。おばあさまの言葉は、私のこころを殺すには十分だったもの」
占部はなにも言わない。銀子は彼を見上げることもなく、こころの内側にあったものをただただ独り言のように呟いた。
「でも、こころは死んでなかったよ。だって、夕陽をきれいだって思うことができたから」
「人間のことはよく分からねぇが、ろくでもないんだな」
彼のやる気のなさそうな声に、銀子はくすりと笑う。
ろくでもない。たしかにそうかもしれない。でも、そうではないひともいる。きっと、そういうひとは見つけるのが難しいのだろうけれど。




