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鵺の森  作者: イヲ
第二章・すゞね
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五、

「さっそく嗅ぎつけてきやがったね」


 独り言のようにつぶやいて銀子の手を取り、大股で歩きはじめた。おもわずつんのめりそうになったが、すんでの所で踏みとどまる。


「いいか。ここは俺が始末するから、きみは隠れているんだ。俺が合図したら、逃げるんだよ」

「う、うん。分かった」


 やがて露店の数はすくなくなってきて、深閑の林が見え始めてきた。物音ひとつせず、威勢の良かった露店の主人たちの声が聞こえなくなってくる。

 たしかに、後ろを歩いている妖の音が聞こえた。土を踏みしめるような、草履の音が聞こえてきて、ひどく緊張する。顔を見たいわけではないが、何度か後ろを振り返りそうになった。

 露店が完全になくなったころ、林が両隣にずっと続いている光景を見計らって、暁暗の手が銀子の手から離れる。

 鼓動がうるさく聞こえてしまって、くちびるをかたく結んだ。


「行け!」


 とん、と銀子の背中をたたいて、暁暗が叫ぶ。

 その衝撃につんのめったが、足を踏み込んで走り出すことに成功した。誰かの怒声が聞こえる。「待て」とも、「食ってやる」とも聞こえ、恐怖心が銀子を襲う。


――逃げて、どうなるというの。


 ふいに聞こえた声。まるで、やわらかくて甘い香りのする、金木犀のような声が聞こえてくる。

 走りながら左右を見ても、誰もいない。誰一人、この道を通る妖はいない。

 どれくらい走っただろうか。かなり走ったような気がするが、実際は分からない。空はきれいな色をしていた。銀子のきもちとは正反対の、おだやかな色だった。


――逃げていたら、今まで通りだよ。逃げても、誰もたすけてくれない。


「私は……」


 空の音のような声が聞こえてきて、ようやく立ち止まる。後ろをみても、暁暗やほかの妖たちはいなかった。かなり走ってきてしまったのだろうか。


――勇気を出して。あなたは、決して弱くなんてない。だって、あなたはあなたを傷つけなかった。ちいさな夢をみるようなこともなかった。


「あなたはだれ?」


――私は伊予姫。今朝、会ったでしょう?


「伊予姫……。どうして、あなたの声が私に聞こえているの?」


――短刀よ。柄は、私の木の枝でできているの。だから、占部が渡したのね。占部は、あなたを心配して守り刀を渡したのよ。


 伊予姫はかすかに笑った気配を見せて、おもわず袂に差し入れている守り刀に手を触れた。

 柄はたしかに木の幹のような、(ごつごつとはしてないけど)手触りがする。


 伊予姫は、弱くはないと言ってくれた。

 銀子は自分を弱いものだと思っていた。おそらく、家族も銀子を強い子などとは思っていなかっただろう。確かめるすべはもう、ないけれど。


「私、戻る。何もできないかもしれないけど、戻るよ」


 伊予姫はもう、何も喋ることはなかった。

 銀子は来た道を必死に走って、暁暗の姿を探す。両脇に広がる林のなかからも、長く続く道からも誰の声もしない。静まりかえっていて、まだ明るいのにすこし不気味に思えた。


「暁暗……」


 彼はどこにもいない。林の中を探しても、姿は見当たらなかった。まさか、と嫌な予感しかしない。けど、道の真ん中で立ち尽くしていても、なんの解決にもならないだろう。

 勇気を出して林のもっと奥に進もうと、編み上げブーツのつま先を草むらに落とした直後、鋭い風が銀子のほおを裂いた。

 牡丹の花よりも赤い血潮が、ほおを静かに撫でる。


「……!?」


 前にも後ろにも、誰もいない。しかし、銀子がいる真上から葉ずれの音が聞こえ、反射的に顔を上げた。

 木の幹の上にいたのは、黒い着物を着た男の人だった。いや、この人は「ひと」ではない。妖だ。目つきが異様に鋭く、銀子を見下ろしてにやにやと笑っている。


「お嬢ちゃんが銀子だね?」

「……」

「そうかいそうかい。お嬢ちゃんが人間の――銀子か」

「あなたはだれ?」

「俺は鴉さ。銀子。さあ、俺と一緒に行こう。おいしいものをご馳走してあげよう」


 嘘だ。

 すぐに分かる。鴉の妖はにやにやとしていて、ほんとうではないことをしめしていた。銀子は一歩足を下げるが、逃げ出せるような隙はない。

 戦ったことなど、一度もない。

 それでも分かる。(おそらく私は、この妖に負ける。なぜなら、戦い方をしらないから。)


「……ひとつ聞いていい?」


 別段、時間稼ぎというわけではない。

 ふいに思ったのだ。


「どうして、妖や人間を襲うの?」

「んん? 献上するためさ。特に人間の生き血を献上すると、そりゃあすばらしいご褒美がもらえるんでね!」


 ごくりと喉が鳴る。生き血。その意味は、銀子にも分かる。捕まったら殺されるということを。

 死ぬということを分かっていたつもりだったのかもしれない。那由多に助けられたのはほんとうに運が良かっただけで、運が悪かったわけではないのだ。

 だから今銀子が死んだとしても、おそらく当然の結果なのかもしれない。

 死にたくはないと思っていても、現実はそれを鵜呑みにはしない。決して。


「私はまだ、死にたくない」

「ほうほう。そうかそうか。でも、俺はお嬢ちゃんを殺さなければいけないんだよ。悪いねぇ」


 まったく悪びれていない鴉は、いまだにやにやと笑っている。寒気がするくらいに。

 クロッカスの花のように白い空。銀子が見る最後の空になってしまうのだろうか。


 一歩、足をさげる。鴉は幹から飛び降りて、銀子へと近づいた。


 ふっと、銀子の足下に影が水のようにゆらめく。反射的に上を向くと木のてっぺんに、立派な角ときらきらと輝いている鱗を持つ龍が、こちらを睨んでいた。

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