一、
銀子が立ち上がれるようになれたのは、それから2日後のことだった。
最初は立つことがかなり大変だったが、立ってしまえばそれほど苦労はしなかったように思う。
ひとりで、中庭の縁側にすわった。
月が出ている、すこし蒸し暑い夜だった。
虫の声が聞こえる。
すべてを思いだした。
銀子と母の記憶。
道具として育まれた過去。
彼女は、いつもちがう場所を見ていた。
銀子を見ていても、見ていなかった。
きっと、父のことを見ていたのだろう。
死んでしまった、父のことを。
だから、根の国に半分行ってしまったまま、銀子を育てた。
それを、知っていた。
じっと、その光景を見ていた。
つらかったけれど、それでも産んでくれたことに感謝しなければ。
「でも、私は平気。道具として育てられたとしても、それを否定してくれた人がいるから」
そっと、ひとりでつぶやく。
誰にも聞こえないように。
まるで――決意したように。
「銀子」
「わっ」
いきなり話しかけられて、おもわず肩が揺れる。
顔をあげると、占部が不審そうな表情で銀子を見下ろしていた。
「占部? どうしたの」
「いや、別に」
「ちょっと寝苦しいもんね」
「そういうわけじゃねぇんだが」
「? ふぅん」
とくに追求せずにいると、彼は銀子のとなりに座った。
話すこともせずに、ただぼうっと占部は月を見上げている。
しめった風が、長い髪の毛をゆらしたあと、くちびるを開いたのは占部だった。
「おまえは今、幸せか?」
占部らしくない言葉、だと思った。
それでも、彼は彼なりに案じてくれているのだ。
「好きだ」と言われたあと、銀子は幾夜も幾夜も考えた。
占部にとって、銀子はふさわしいのだろうか、と。
銀子は、占部を嫌いにはなれないだろう。それは絶対だ。
けども、占部にもっとふさわしい人がいるのではないか、とも思ってしまう。
銀子はまだ幼い。
いとけない精神に、それは考えなければならない事柄だ。
「幸せだよ」
それでも、これだけはいえる。幸せなのだと。
占部はすこしだけ驚いた表情をした。
「だって、占部も那由多も、みんなやさしいから。そんな人たちに囲まれて、幸せじゃないなんて言えないよ」
「ああ……そうだな」
ふっと、占部は笑った。
そんな表情が好きだ、とおもう。
好きな人が幸せだと、自分も幸せに思えるのだろうか。
そう思わせる笑みだった。
「占部は? 占部は幸せ?」
「……幸福な生き方じゃなかったが、今はずいぶんマシになった。おまえと出会ってからはな。今じゃ、幸せと感じられる」
「……そうなんだ。よかった」
今、とてもうれしいことを言ってくれたけれど、銀子は照れ隠しに一言だけ、つぶやいた。
占部の想いを、知ってのことだ。
卑怯だと思う。
(私は卑怯だ。占部の想いを踏みにじっている気がする。)
それを打破するには、銀子自身の思いをことばにするしかない。
けれど、こころのどこかがそれを拒否する。
(占部のことは好きだ。けど、それを本心にする勇気がない……。)
「おまえ、寝てないのか」
「え?」
「そんな顔をしている。まあ、原因は私なのだろうがな」
「そんなことない!」
思ったよりも、大きな声が出てしまい、思わず口を押さえる。そして予想通り、占部は再び驚いた顔をした。
「いろいろ考えてしまうのは、私のせい。占部のせいじゃないよ」
「いろいろ考える?」
「え、えっと……その、占部にとって、もっとふさわしい人がいるんじゃないか、とか……」
「……」
そんなことを真正面から言えるはずもなく、自分のひざを見つめてつぶやいた。
「あのな、ふさわしいって何だ。地位か? 金があることか? んなもん、私はいらねぇ。本当に怖いのは――」
ああ、そうか、と銀子は思う。
なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。
銀子は必ず、占部を置いていってしまう。
半妖は、何年生きられるのかも分からない。
人間とおなじくらいなのかもしれないし、もっと生きられるのかもしれない。
「私が置いて行かれることだ。だが、それでも私はおまえが好きなんだ。たった百年も生きられない娘に、私は好意を寄せてしまった。だが、後悔などしていない。それが私の本心だからだ。本心だけは、だれかに拒絶されようが曲がらない。たとえ、年月であろうとな」
「……」
そこまでの覚悟をもって、銀子に告白をしたのだ。
「そうだね……。占部の言うとおり。占部は後悔しないのね。私も後悔したくない。臆病なままじゃいけない」
膝をぎゅっと握りしめて、占部の顔をしっかり見上げる。
自分の思いから逃げていては、いつまでも弱いままだ。泣き虫のままだ。
だから、告げようと思う。
「わ、私も、占部のこと好きだよ……」
その後は、虫の声しかしなかった。
「……そうか……」
たっぷり数十秒たってから、占部は呼吸するようにつぶやいた。
その声色はどこか諦めたような、それでいて悲しげだった。
「悲しいの? 私が好きになって」
「いや……そうじゃない。いや、まさかおまえが本当に言うとは思わなかった。驚いただけだ」
「本当にってなに!」
「そう怒るな」
占部はなぜか顔を覆って、おおきくため息をついた。
「……どうしたの?」
「私くらいの年になると、相思相愛ってのがないんだよ……」
「ふうん。でも、私は占部のこと好きだよ。占部も、私のこと好きって言ってくれて、すごくうれしい」
たしかなことだった。
これが、「私のほんとう」だと胸を張って言える。
占部に告げて、どこかすっきりとした気がした。
きっと、想いを告げようとしても告げられずに、重たく心にのしかかっていたのかもしれない。




