七、
「銀子」
声が聞こえた。
「よく、戻ってきてくれた」
どこか、安堵したような声を聞いて、ああ、戻ってこれたのだなと実感する。
ギンイロが手を引いてくれなかったら、ずっとあのままだっただろう。
羊水に浸るような感覚が永遠に続いていたはずだ。
「私……」
額を撫でてくれるのは、誰だろう。
つめたい。
見ているのに、見ることができない。
「那由多……?」
「ああ。占部もいるよ」
「占部……。そうだ、私……」
「今はまだ、無理をしなくてもいい。ゆっくり眠っていておくれ。まだ、きみの体は完全じゃない」
頭がもうろうとして、考えることを拒絶しているように思える。
けれど、帰ってこれたことが何よりもうれしかった。
占部の元へ。那由多の元へ。
「眠ったか」
「ああ。そのようだ」
那由多の顔色はいいとは言えないが、以前よりは随分ましになったようだ。
それでもまだ――心配な点はあるが。
「月虹姫の遺体はどうするつもりだ? ただ単に埋めるつもりじゃないだろう」
「それはぬかりない。月江に協力してもらって、永久的に力も体も――心も封じる術式を施す予定だからね」
「そうか……」
「わたしもまだおちおち寝込んではいられないな」
「おちおちどころじゃねぇだろ」
永久的に術式を施すのならば、那由多もそれに従わなければならないのだから。
那由多には、まだ生きなければいけない理由がひとつ、できた。
もっとも、死のうにも死ねない精神を持っているのだが。
彼の体が限界に達すると、精神のみがほかの「体」に乗り移る。
それを繰り返してきた。
外見はおなじだが、その体を精神で抑えなければならないことで、彼は苦しむことになる。
言うなれば、「慣らさなければならない」のだ。
その反動が、以前銀子が見たヒトの姿ではなくなるということなのだろう、と那由多は他人事のように説明した。
ふいに座っているはずの那由多の体がぐらりと揺れる。
占部は思わず手を出して、銀子の体と衝突するのを避けた。
「おい那由多。おまえ、そろそろ時期じゃねぇのか? 寝てろ」
「――そうだね。そうさせてもらおうかな。銀子のことを頼むよ」
「ああ」
彼はふらつきながらも、うまく立ち上がり、自室へ向かったようだった。
こうしてみると、銀子の部屋はおそろしく殺風景だった。占部の部屋もおなじようなものだが、銀子自身のものは着るものしかない。
それと、長持のなかに入っている、用途不明の品々くらいだ。
我慢してきたのだろうか。
つぐみも、おなじだった。
彼女の部屋も、殺風景そのものだったように思える。
ちいさな花も、少女が好みそうな香も必要がなかったのだろうか。
「いや、違うな……」
ひとり、つぶやく。
つぐみはつぐみだ。銀子ではない。だれも、だれかの代わりにはなれない。
銀子には、銀子のほしいものを与えたい。
きれいだとはしゃいでいた、都雅という花も、銀子の父親――一叶が好きだったという野の花も。
彼女に贈ろう。
「……」
頭の片隅で、それも違う、とだれかが囁いた。
銀子は、モノをほしがる少女ではないということに気づいた。
そうだ、だからだ。
着物を買ったときも、あんなにも惑っていた。
気づかなかった、と言えばそれまでだ。
彼女がほんとうに欲しいものは何なのだろう――。
(気づいているんだろう。本当は。)
だれかが囁く。
(逃げているのだ。お前は。銀子から。そして、自分の心から。)
自分の心――。
ないと思っていた、いや、冷えて固まった心を溶かしたのは、銀子だ。
凍えて動けなかった占部に手をさしのべたのも銀子だ。
(それは、恩なのだと思っていた。)
(さしのべてくれたから、守っているのだと、思っていた。)
けれど、それはちがう――。
ちがうのだ、とおもわず占部は自分の手をきつく握りしめた。
そして、自分が自分に問いかける。
(取り繕うことは誰でもできる。だが、ことばで伝えなければ分からないことも、多々ある。)
(お前は取り繕うことができるほど、器用じゃないだろう? だったら、ことばで伝えなければ――ずっとこのままだ。)
銀子の手をそっと握る。
手のやわらかさを保ったままの少女は、占部になにを求めているのだろう?
――いや、そんなことを考えているから駄目なのだ。
これは、銀子の問題ではない。
たとえこのことばで銀子を傷つけようとも――。
ぐっと手を握りしめる。
(自分は何をしたいのか。どうしたいのか。よく考えろ。)
(暁暗も言っていただろう。問題は、自分の気持ちの問題だと。)
銀子はまだ、目が覚めないだろう。
覚醒するには、あと一日ほどかかるはずだ。
占部はそっと彼女の部屋を出て、伊予姫のいる中庭にたどりつく。
月が出ている。
占部は、伊予姫の幹に手をあてた。
なにも聞こえないことはわかっている。
わかっていたが――かすかな、本当にかすかな声が、占部の耳に鈴のような、透明な声が聞こえてきた。
「……伊予姫か……?」
「そうよ。私の声が聞こえるのね――占部」
「――ああ」
「久しぶりね。何百年ぶりかしら。あなたと話すのは。でも、今になって私の声が聞こえてくるということは、何も不思議なことではないわ」
「どういう意味だ」
「人の……半分とはいえ、人の慈しむ気持ちに触れたからよ。守護龍としてだけの意味ではないと気づいたから。あなたにも、心がある。見失っていただけ。それだけなの」
幹に手を当てたまま、月を見上げる。
下弦の月。
かすかな雲。
虫の声。
もう、伊予姫の声は聞こえてくることはなかった。




