六、
銀子を彼女の部屋に寝かせたあと、占部は鴉を転移し続けている場所へ走った。
八龍、瑞音、そして久しぶりに見る夜霜は少々傷があるものの、ほとんど疲れは見せていないようだ。
「おお、占部殿。そちらも上々の結果だったようですな!!」
「うるせぇよ八龍。鴉のほうはどうだ」
「もうまったく来なくなりました。つい先刻まで襲ってきたのですが」
「ならもう戻ったほうがいい」
「畏まりました。那由多さまのお体も限界が近いのでしょうから……。八龍。もどりましょう」
「あいわかった。分かったな、夜霜」
「……分かりました」
夜霜はどこか不服そうだったが、しぶしぶ了承したようだ。
ふっ、と、ヒトガタに戻ったあと、結界も解けたように感じる。
これでおそらくは、那由多も楽になるだろう。
「ったく、世話の焼ける……」
一応、警戒しておくため、占部はそこから動かない。
だが、占部の脳裏には銀子の真っ青になった顔がこびりついて離れない。
深い深い月虹姫の心のうちに踏み込んだのだ。
五体満足で帰ってこれないかもしれない――。
ぐっと、てのひらを握りしめる。
「守るなどと……軽々しく言うものでは……ないな」
このままもどらないかもしれない。
戻ることも出来ず、ずっと心の深淵の中で眠り続けねばならないのかもしれない。
銀子のそばにいなかったのは、「逃げ」なのかもしれない。
ただ――今や言い訳にしか過ぎないが――守りたいという思いに嘘はない。
死んではならない少女だ。
鵺の森にとって――いや、占部にとっても、だ。
しんと静まりかえった竹林。
鴉は、もう襲うことはないだろう。
月虹姫が死んだのだ。
徐々に崩れ去って行くだろう。月虹姫の圧倒的な力のもとで統一されていた鴉なのだから。
「……銀子」
「そんなに恋しいのなら、行くべきじゃないかな。占部どの」
聞き覚えのある声。
振りかえると、暁暗がいた。枯れ茶色の髪の毛をゆらして、ふっと笑う。
「占部どのが嬢ちゃんのことをどう思っているかなんて、那由多どのも月江どのも知ってる。だけど問題は、占部どの自身の気持ちだよ」
「お前……」
「ちょっとバレちゃってね」
暁暗の体は血まみれだった。
よく見ると、左腕があるべき場所にない。
そこから血が出ていないところを見ると、ずいぶん前に「切り取られた」らしい。
「左腕一本ですんでよかったよ。影――というか、人形たちは俺の命をとるみたいだったけど。波達羅盈がどうも俺をまだ使いたいようでね」
「そうか……。悪かったな」
「いいや。俺が好きでやったことだし、占部どのが謝る必要はないよ」
苦笑いをする暁暗は、本当になにも気にしていないようだった。
腕一本持って行かれたというのに。
彼は「それよりも」と占部を見つめた。
「嬢ちゃんのことだよ。占部どの。嬢ちゃんをどうするつもりだい」
「……」
「まあ、俺が口を出すことでもないか」
暁暗はそう言って、再び苦笑いをした。
いつもの飄々とした雰囲気がない。相当、力をそがれてしまったのだろう。
「あと、俺の左腕のこと、嬢ちゃんには言わないでいておくれよ。これ以上何かを背負うことはないからね」
「分かった」
占部がうなずくと、彼はようやく満足そうに笑った。
「嬢ちゃんのところに行ったほうがいいんじゃないかい。きっと、彷徨っている。その手をちゃんと握ってあげてくれ」
「……そうだな」
互いに、背をむける。
竹林に風がかすかに吹いた。
銀子は、海のなかにいた。
ギンイロがいる海のなかだ。
ここにくるのは久しぶりだ、とおもう。
「……」
まるで揺籃のなかにいるようで、うまく頭が働かない。
ふっと、目の前にきらきらと輝く鱗をもった、人魚が泳いでいった。
「……ギンイロ……?」
ぼうっとする頭でも、彼女の姿を認めることができた。
「そうよ。銀子。ここは、あなたの心のなか。見て。さんごが、あんなにたくさん育ったわ」
「……」
下をみると、うつくしいさんごがたくさん、たくさん育っていた。
空を見つめるようなさんご。
それは、空への羨望ではなくて、そこにいることを誇るようだった。
「あなたとあなたの母親は私に記憶を授けた。そして、私はそれを守ってきたの。でも、もう大丈夫ね。あなたを道具としてではなく、必要としてくれる人がいる。心から愛してくれる人がいる。それだけで、ひとはとても強くなれる。あなたとあなたの母親の記憶を、すべて返すときがきた」
「記憶……」
「そう。さあ、手を伸ばして。あなたの望んだ場所に連れて行ってあげる」
(私が望んだ場所……。あたたかい手。燃えるような……赤い髪……。)
「ギンイロ……ありがとう」
銀子がうつろの中で礼を言うと、彼女はやさしげな表情でほほえんだ。
それからは――分からなかった。
まるでギンイロのようにこの水の中を泳いだような気がするし、深い場所から一気に明るい場所へ急上昇したような気もするし、逆に深く深く沈み込んだ気もする。
ただ、手があたたかかった。
銀子が「目ざめて」見たのは、彼女にとって一日ほどしかたっていないのに、泣けるほど懐かしい、自室の天井。
そして一番会いたかった、あの人の顔があった。




